大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

その他芸術、アート

漫画から旧満州の郷愁を感じさせられて

 
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 添付した写真は、ビックコミックオリジナルに連載されている「フイチン再見」で、戦前・戦中・戦後の中国大陸「満州」が舞台となっており、最新号に描かれた戦後の引き揚げ風景を見ながら、私の父親も同じ体験があったものの、生前に満州の詳しい話は聞いたことがないため、父親の満洲時代について知ろうとしても聞けない現実を寂しく思う一日となりました。
 
 この漫画は、旧満州ハルピン出身で、ハルピンを舞台にした「フイチンさん」を書き残した漫画家上田トシコさんの実体験をもとにした漫画で、作者の村上もとかさんは、上田トシコさんの生涯を題材として2年ほど前からビックコミックオリジナルで連載されています。 
 
上田 トシコ(うえだ としこ、1917年8月14日 - 2008年3月7日)は、日本の漫画家。東京市生まれ、旧満州ハルピン出身、頌栄高等女学校(現 頌栄女子学院)卒業。本名・上田俊子。
少女漫画の黎明期に活躍した女性漫画家の一人であり、代表作にハルピンを舞台にした『フイチンさん』などがある。少女誌執筆の頃は上田としこ、新聞の執筆の頃は上田とし子、その後に上田トシコ、と3度ペンネームを変えている。
 
イメージ 3 今年になって発行された最新号では、戦後中国軍に戦争関係者として身柄を拘束された父親と、一度は拘束されたものの開放された兄など家族の心情が描かれ、線路沿いに大きな荷物を背負って引き上げる日本人や、生きて日本に帰るため自分の小さな子供を置き去りにする母親の様子が描かれています。
 
 私の父親は14歳の時に、当時の国鉄には身長が足らずに採用されないため、鉄道員になるため中国に渡り、採用してくれる満州鉄道に入社しましたが、結果的には戦死した兄が存在したことから、満州に骨をうずめる覚悟で日本を出国したと聞きました。
 
 
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 私の父は軍人ではなく、鉄道員として駅周辺の中国人と親しく接していたため、敗戦後に日本兵が捕虜となり、軍人以外でも男性が収容所に拘束されるときに、自宅にかくまってくれた中国人が複数存在し、多くの日本人が捕虜収容所に拘束され、シベリアに送られた人々も多数ありますが、中国人を憎むどころか親交を温めていました。
 
 中国残留孤児が日本の親族を探しだした当時、新聞紙面に自分の生活していた近所から親族を探している人を発見し、厚生省に連絡したことから、来日しても何も手がかりがなく沈んでいる人々の話し相手になって欲しいと言われ、毎年連絡が入るようになりました。
 
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 父は昭和17年に満州に渡り、中国各地の駅員などをしていましたが、14歳から3年間の少年期だったことから、駅周辺の中国人にも可愛がられて生活していたことが想像され、日中国交正常化後は中国語を学びなおし、旧知の中国人と文通し、ラジオや日用品なども送っており、自由に渡航できない時期にも新聞社の訪問団として中国を訪れていました。
 
 引揚げ船の出る港まで線路沿いに歩いたと聞きましたが、駅員のため助けてくれる中国人も多く、着の身着のままに帰国した人が多い中で、温かい毛布を持って帰国し、中国に嫌な思い出はなく、住んでいた吉林省の鉄道員で組織された吉林(チーリン)会に参加していました。
 
 添付した「フイチン再見」は実に忠実に描かれており、父が生きておれば喜ぶと思いますが、私の生まれる8年前が舞台となっているものの、記録の伝承がないままに父は他界していることと、交流していた中国の人々と連絡もとれないことが残念ですね。
 
 安部政権になり、中国とは険悪な関係が続いていますが、日本が植民地化していた当時の人々の中にも、同じ人間として近所付き合いをしていた日本人は多く、名古屋市は卓球を通してピンポン外交が行われた舞台になることから、人と人との関係から日中友好を果たすべきと漫画と亡き父親を回顧しながら思う一日となりました。
 
                 本日の体重 71、0キロ 徒歩数 2万4687歩
                                     1月7日の一言
追伸
イメージ 5出典元は、ビッグコミックオリジナルです。

蟹…大鹿時義作 父親の遺筆

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私の父親の書いた色紙です
 
 掃除をすると物が移動するため探すのが大変なことから、基本的に事務所は積んだままの状態となっており、久しぶりに物を探すため掃除をすると、忘れていた旧い品々が発見され、最近では30年ぶりに出てきた娘の本が孫のお気に入りになってきました。
 
 添付した色紙は、平成5年に亡くなった私の父親が蟹を描いた色紙で、数日前に偶然発見したので添付しましたが、父親は若い頃から日本画家の浅見香城先生に師事しており、多くの色紙や絵画が遺品として残されています。
 
 もっとも、名鉄に勤務していた父親は、自分の描いた絵画や色紙の出来の良い作品は、会社の先輩方の定年退職や、病気見舞いなどに持っていくため、我家に残された父親の絵画は出来の悪いものが多いものの、人に差し上げるために残された色紙はそのまま残されています。
 
 一方で、戦前の帝展(帝国美術院展覧会・現在の日展のような存在)画家であった浅見先生が父親に手本として書き記した画帳や、父親が日本画で交流のあった著名人の色紙や絵画が事務所の2階に山積みされています。
 
 テレビの鑑定団に出したいような品々ですが、残念なことはほとんどが表装されておらず、大正から昭和初期の書物や、横井庄一さんの遺品となる茶碗や花瓶まで含めると我家の2階は宝の山かもしれません。
 
 しばらくは我家に保存された書や絵画などの品々を紹介し、我家のささやかな珍品として記録していきたいと思っています。
 
                                     8月19日の一言
追伸
この記事を書き込んだ後で、ヤフーオークションに私の父親の書いた色紙が出展されていることが判明しました。
私の父親の絵は趣味で、色紙を売ったことはありませんが、どんな経路で出展者のもとにあるのか興味は尽きません。 
確実に父親の書いた色紙(下の絵)なので、買い戻したい心境もありますが…
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蔵の宿の原作者の訃報を知り…

イメージ 1 1ヵ月前から休載中となっていた週刊漫画「蔵の宿」の原作者が、胃がんのため亡くなっていたことが、先週に発売された最新号に掲載されており、漫画のファンではありながら、原作者の名前も知らないままに、しかも原作者は私と同年であった事実に悲しいの一言となりました。
 
 たかだか漫画と笑われるかもしれませんが、スタートした当時(1998年9月)から毎週読んできた漫画であり、この週刊漫画の主役級の漫画だっただけに、この漫画を読むために毎週金曜日の夕方に喫茶店に通っていた私の長い歴史が途絶えてしまったような気持ちです。
 
漫画「蔵の宿」、西ゆうじさん死去 坂井市丸岡町出身、59歳
 福井県の造り酒屋を舞台にした漫画「蔵の宿」などで知られる坂井市丸岡町出身の作家で漫画原作者、演出家の西ゆうじ=本名・祐治=(にし・ゆうじ)さんが6日午前2時12分、胃がんのため東京都板橋区の病院で死去した。59歳。
 関係者によると、2年ほど前から都内の病院に入院していた。通夜は8日午後6時から、告別式は9日午前10時半から、いずれも東京都豊島区池袋3の1の6、祥雲寺で。喪主は長男由澄輝(ゆずき)さん。
 坂井市丸岡町安田新出身。大学卒業後、映画監督の鈴木清順氏に師事し、テレビドラマの脚本から作家活動を始めた。深夜ラジオ番組や舞台演出など幅広く手掛け、1998年~2010年の長期にわたり、週刊漫画TIMESで「蔵の宿」を連載。主人公を本県生まれに設定した「あんどーなつ―江戸和菓子職人物語」や「華中華」など数多くの原作がある。
                     福井新聞の転載です
 
 本日は朝から市議会の議会運営委員会や議案説明会が夕方まで続き、夜に開催される書道会との合間に訪れた喫茶店で訃報を知り、書道会後に中学の同窓会報の校正を持って一宮市に走ったため、帰宅した11時過ぎにこの一言を記しかけました。
 
 ネット検索で、私が愛読してきたビックコミックオリジナルの「あんどーなつ」の原作も西ゆうじさんの原作と知り、人を笑わせるだけの漫画とは違って、共に不遇の過去を胸にしまって頑張る女性達が主張して、我々を感化させる作品だっただけに残念でもあります。
 
 「あんどーなつ」については休載されておらず、原作がどの程度残されているのか気になりますが、「蔵の宿」についても原作が残っておれば、作画を続けて欲しいと思いますが、さてどうなるのでしょうか。
 
 漫画にも色々あり、「蔵の宿」や「あんどーなつ」のように、原作者によって筋書きと完結のある劇画が増え、テレビドラマや映画化される例が多く、原作者の故郷である福井や北陸にこだわって描かれていただけに悲しい別れともなりました。
 
 さて、「蔵の宿」が連載されていた週刊漫画は、私にとっては巻末の占いのコーナーも捨てがたいものがあり、今週の私の占いは何ともならない失敗がありそうな相であり、本日の夜になって一宮市まで走ったのも、明日への先送りは危険と察しての行動でした。しばらくは油断のできない日々が続きます。
 
                                     2月19日の一言

グループ茜小さな作品展へのいざない

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 本日訪れた津島市西愛宕町の珈琲店「茜屋」では、グループ茜「小さな作品合同展」で、茜屋の壁に作品を飾った芸術家や、愛西市の公民館で開催される「合同展」に作品を出展していた人たちが、小さな作品を持ち寄った展覧会が開催されていました。
 
 この作品展は、今月末の28日まで開催されていますが、これまで40年間にわたって営業していた茜屋が、建物の所有者によって建物が解体されるため、今月末を持って閉店することから茜屋さんにとっても最後の展覧会となります。
 
 「それでは茜屋さんはどうするの」の一言が聞かれますが、ご主人も70才になっておられることと、数年前には大病を患っておられることから、新たに開店される気持ちは持っておられず、隠居として悠々自適の生活に入られるそうです。
 
 私はここのマスターを通じて、社会人落語として、本職の落語家以上に落語会に参加して、私の住む津島市を中心とする地域に、社会人落語の礎を作った「浪漫亭砂九」さんを紹介されました。
 
 その砂九さんこと、纐纈さんも交通事故の被害者として命を落とし、私の一番の恩師でもあった中学時代の教頭長谷川先生も、長谷川先生と一緒に書道展に書を披露しておられた木村さんも鬼籍に入られており、その他の多くの知人たちを偲ぶ場所が無くなるのは寂しいかぎりです。
 
 本日は現在完成を目指して編集中の「神守中同窓会報」を編集する一宮市の佐藤さんと一緒に訪れましたが、佐藤さんの娘さんも茜屋に置かれたグランドピアノでピアノコンサートを9年間も開催してきた事から、茜屋さんの閉店によって会う機会が減る知人と携帯電話の番号を交換しあっておられましたが、一軒の珈琲屋さんの閉店が人々の交流する機会まで減らしていき、お互いが年齢を重ねているだけに寂しさを実感する一日ともなりました。
 
 どこからも表彰されることなく、茜屋さんのマスターも表彰とは無縁の性格で、忌憚のない発言を続けてこられましたが、津島市や海部地方の社会教育に大きな足跡を残す茜屋の閉店には、昭和の気概や気風の終末のような気持ちが湧き、我々市民からの表彰状を贈呈したいような気持ちです。
 
 閉店の話題は寂しく、今年の4月中旬には私の「上高地写真展」も開催を予定されていただけに、一つの目標を失ったような心境ですが、私以上に元気だったマスターが見せる横顔の寂しさが身に堪えます。
 
 一人でも多くの人々に、グループ茜「小さな作品合同展」へ足を運んでいただき、40年の歴史を振り返ってもらいたいものです。
 
                                     2月18日の一言
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