大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

小学校

小学校の入学式に出席して

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 本日は小学校の入学式が行われ、私は母校となる神守小学校の来賓として出席しましたが、6年生の児童に手をひかれた3クラス81名の新入生が新一年生として入学しました。

 写真は、ライオンズクラブより新入生全員に黄色の傘が寄贈された引渡し式で、最近はライオンズクラブから毎年傘が贈られていますが、私の長男が小学校に入学した当時は、全員に柚子(ユズ)の木が贈られており、地域を歩くと各地で黄色い実をつけた柚子の木を見かけます。

 議員になった16年前から毎年入学式に出席していますが、本日の「おまわりさん」のお話に登壇した警務課長さんの一言は久しぶりに的を得た話で、小さな新入生への説明は難しいものの見事に役目を果たされたと思います。

 交通事故に遭わないこつは、止まる、見る、待つとの説明は、大人にも共通する話で、自転車でもいったん止まると出だしが辛いため、止まらないままに道路を渡ろうとするのは、自分自身でも最近意識するようになりました。

 過去の一言にも記した記憶がありますが、小学生の防犯対策について、知らない人から話しかけられても相手しないようにと説明すると、子供たちは行きかう人々と挨拶もしなくなりますから、子供への説明は難しいものがあります。

 本日は、「つみきおに」として、①ついて行かない、②みんなと一緒、③きちんと知らせる、④大声で知らせる、⑤逃げると話がありました。
 連れ去り事件が多発しており、保護者も心配な社会になっていますが、知らない人とは話さないとか、知らない人を信用するなと子供に説明すると問題も多く、限られた時間の説明で「つみきおに」の説明は的を得ていました。

 さて、還暦を過ぎた私にとっては、小学校の入学式は孫の話題で、小学校の恩師も大半が鬼籍に入っておられ、私自身の記憶の中からも入学当時の様子が思い出せなくなってきました。
 孫の話題と記しましたが、我家では嫁いだ娘の孫が1人いるだけで、孫どころか息子たちは結婚すらしておらず、しばらくは入学式との縁も無さそうな現実が寂しく思われます。

              本日の体重 69、3キロ 徒歩数 1万4003歩
                                    4月6日の一言

小学校の卒業式が挙行されて

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 本日は県内の小学校で卒業式が行われ、私は母校でもある地元の神守小学校の卒業式に来賓として出席しました。

 「私たちは6年間でたくさんの先生にお世話になりました」
 「ありがとうございました」
 「先生たちから教えていただいたことを忘れません」

 「お父さん、お母さん … ここまで育ててくれてありがとう」
 「みんなに感謝の気持ちでいっぱいです」

 卒業式の「旅立ちのことば」の中での一句で、恩師や友達や両親に感謝の言葉が続きましたが、誰もが素直な子供たちとしか思えず、こんな純粋な小学生が4月から中学校に進むと問題のある上級生の感化を受けて、不登校や問題を起こす生徒が出てきます。

イメージ 2 右に添付した花は、卒業式の来賓席の前に置かれていたもので、水滴までついた花に見とれていると、精巧にできた造花でした。

 そうして見ると、卒業生がそれぞれ胸につけていた花も造花らしいことが判り、何か空しさが感じられるとともに、毎年繰り返される卒業式についても、式そのものの意味が形骸化され、軽薄に思えてきました。

 開式の辞に続く「国歌斉唱」についても、体育館の舞台上に日の丸が掲揚されているにもかかわらず、卒業生に尻を向けたまま歌わせることが適切なのか…

 私たちが小学校を卒業した昭和40年頃には戦後の貧困からは脱却していたものの、恩師たちは家庭の経済的格差を教育上では出さないように苦慮しており、本日の卒業式には大学を卒業するような高価な衣装に身をつつむ女生徒が多数存在し、こんなことが生徒間の亀裂や格差を生み、いじめを生んでいくのかもしれません。

 還暦を過ぎてからも知らない知識の多さに、我が身の未熟さも実感させられますが、私たちの蓄積した経験や知識を子供たちへ伝承することは難しく、学校においても過去の先人たちの遺徳が継承されていないように感ずる一日となりました。

                 本日の体重 70、8キロ 徒歩数 5681歩
                                     3月20日の一言

明治から残る小学校の松伐採の回覧に

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ちょっとピンボケですが、我家のサクランボです
 
 本日は委員会の合間の休日となり、昨日は帰宅も遅かったことと、夜の書道会も続いたことから就寝も遅く、ゆっくりと休んでいると来客が続き、来客があれば相棒が吼え続けることから、留守中はこんなに人が来ているんだと実感させられます。
 
 本来であれば今月1日に発行された母校の同窓会報に協賛いただいた広告主へ集金に訪れる必要がありますが、雑用に追われて日にち延ばしとなっており、予約をした日時に行けなかった歯医者さんにも行けず、昨日の早朝に歯の詰め物が取れたことから偶然に出向けましたが、確定申告も済んでおらず、綱渡りの生活が明日から続きます。
 
巨大たいまつに息災願う 愛知・津島の神社「開扉祭」
上の添付は朝日新聞  下は中日新聞の転載です。
イメージ 2巨大なたいまつの炎で災いを払う、春の神事「開扉(かいひ)祭」が12日夜、愛知県津島市の津島神社であり、激しく燃えるたいまつを担いだ男衆が境内を勇壮に練った。
 700年以上の歴史があるとされ「おみとまつり」とも呼ばれる。ヨシを束ねて作ったたいまつは長さ10メートル、直径1メートル。地元の消防団員ら50人が担いで楼門を駆け抜け「わっせ、わっせ」の掛け声で境内を進んだ。
 燃え残ったヨシは、虫よけや歯痛に効くと伝えられる。男衆が練り歩いた後のたいまつに多くの見物客が群がり「熱い、熱い」と言いながら抜き取った。 
 
 添付した記事は昨日開催された津島神社の開扉祭ですが、今年1月の一言にもポスターを添付するとともに、今年こそ訪れてみたいと考えておりましたが、昨日は委員会が夜7時過ぎまで続き、夜の書道会についても椅子に座るのが精一杯で、残念ながら今年も鑑賞に訪れることはできませんでした。
 
 さて、本日朝の話ですが、他の用事で母校である神守小学校の教頭先生から電話があり、地域の人々から寄せられていた小学校の同窓会が活動を休止することと、母校の創立以来植えられている松の大木が伐採されるとの話を確認しました。
 
 教頭先生の説明では、同窓会活動の限界から、役員総会において活動を休止(終了)する事を決め、同窓会費で剪定されていた松の剪定費用も無くなる事から、総会で伐採することに決めたとの話でした。
 
 同窓会の活動を休止するのは仕方ないが、松の伐採については同窓会だけで勝手に決めるのはおかしいとの私の主張に、「松は昭和58年に同窓会から寄贈されたもので、同窓会の総会で伐採を決めた」との説明がありました。
 
 学校は次々と教員が転勤し、教員も過去の歴史については関心が無いのかもしれませんが、この松は明治初頭に学校が統廃合される際に、私の住む村の「越冶学校」から訓導の教師とともに移植されたもので、昭和58年に「忍耐松」と記されて残された石碑は、校舎の鉄筋化で新築される際に、我々が在学した頃に生えていた玄関前から移設された記念碑と思われます。
 
 当時の校長先生が移植した松が枯れないように毎日のように根元に日本酒を注がれていた話も、今では知る人も少なくなっており、私は現在は中学校の同窓会長となっていますが、昭和58年頃には小学校の役員を務めており、当時は松の剪定に同窓会費が使われていませんでした。
 
 私の推測では、大きな松の剪定には費用がかさむことから、同窓会費が流用されるようになったと思われ、かつては学校の管理費で賄われていたはずで、同窓会役員の年齢が若くなっていることから、過去のいきさつを全く理解することなく伐採を決め込んだようです。
 
 仮に明治20年に松が移植されていたとすると、樹齢は江戸時代から換算される可能性も高く、我々の住む地域には東海道の熱田と桑名の海路を避ける人々の陸路として佐屋街道が存在しており、この松はその頃から残る文化遺産でもあります。
 
 同窓会の活動休止と、松の伐採については、各町内会の回覧版にも回覧されておりますが、ほとんどの人々が伐採される松がかつて玄関前に植わっていた松とは認識されておらず、「総会で決めたことだから…」の一言で伐採されては堪りません。
 
 一方で、各地の同窓会活動が窮地に陥っているのは現実問題で、私が会長を務める中学校でもジリ貧は否めませんが、こんな豊かな世の中では、大きいといっても松を1本残す程度の地域力は存在しており、問題は誰がその地域力を結集するかどうかの問題です。私も20年前に務めていた役職に戻る元気はありませんが、何とか先人や先輩から引き継いだ松を残したいと奮闘するつもりです。
 
                                  3月13日の一言

知らぬ間に変わり果てた石碑に…

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 この石碑は神守小学校の校舎前の庭園にありますが、平成3年に当時の校長先生の筆によって「望」と記されて建立されました。
 
 「あれっ?」、…、「うーん?」、…、「何か変かな?」…
 
 この石は3メートル70センチあり、当時の同窓会会長だった私が建立を前に、津島市や海部郡にある庭石屋さんを全部廻って、「一番大きい石を探そう」と碑文を彫れる石を探し、佐織町(現愛西市)西川端の柴田庭石店さんで見つけたものです。
 
 見つけたものの、店主の見積もりでは150万円程度の費用がかかり、当時の同窓会には100万円程度しか会費が無かったことから、値切って130万程度に値引きしてもらって購入を決めました。
 
 ただし、その後になって黒い石に彫った碑文を石にはめ込む予定だったものを、石が大きいことから直彫りが良いと店主に言われ、直彫りには他の石屋に運ぶ必要があり、大きいためレッカー車を借りて稲沢市の石屋に運び込みました。
 
イメージ 2 「誰に書いてもらおうか?」も議論になりましたが、同じ頃に隣の七宝町の宝小学校が石の校歌碑を造っており、卒業生で愛知県を代表するような書の大家に依頼してお礼を30万円支払ったとの話を耳にしました。
 
 「卒業生でも金がいるのか」と、書の大家と言えども母校から金を受け取ったことに不快感を感じた私は、書道はやったことがないと固辞されていた当時の黒川恒二校長先生に、「どうしても先生に書いて欲しい」と無理にお願いし、私は「懐」の字を所望していたものの、同窓会役員に一番良いと評判の良かった「望」と決まりました。
 
 
 実際には、黒川校長先生が定年退職された9月に完成し、小学校の運動会に併せた序幕式には当時の長谷川春一教育長を始め、多くの来賓の方々が集ったものの、黒川先生は後任の校長先生に遠慮して出席されず、退職して数年で他界されました。
 
 さて、150万円を130万円に値切ったものの、その後に直彫りのための費用やレッカー代がかかっており、私と共通の知人が存在したことに気を良くした石屋の柴田さんが、除幕式当日には祝いの「白い鳩」を飛ばして下さりました。
 
 この鳩も私と柴田さん共有の知人で、当時の費用で10万円はかかっており、値切っていたものの、単純には200万円近くかかっていると思われます。
 「足りない金額は立て替えて…」と、翌年以降に入ってくる会費で返してもらおうと考えていましたが、柴田さんからの請求があるまで声を潜めていました。
 
 「大鹿さん、良い報告です」と当時の教頭先生から電話があり、柴田さんが請求書を持ってこられ、会費が足りないことを告げたところ、「冗談でしょう」と言われ、教頭先生が同窓会の貯金通帳を見せたそうです。
 
 「それで、足りない分はどうなるの?」
 「さあ、会長が何か考えておられると思います」
 「それじゃー、足りない分は大鹿さんが払う事になるのか?」
 「判りません」
 
 そんなやりとりの中で、柴田さんは通帳にあった100万円と数万円だけを受け取り、「あるだけの金額で良い」と帰られたそうで、教頭先生の「良い話」と言うのは、130万円万が100万で済んでしまったことの報告でした。ただし、私はこんな騙したような行為は心苦しく、近くを通ることもはばかるため、翌年に父親が玄関の門柱を立てたいと言った際に、柴田庭石店を使ってもらい義理を果たしました。
 
 さて、冒頭の「あれっ?」の違和感は、当時石碑の周辺は柴田さんによって石で囲われ、碑の下には植樹がされていたものが、コンクリート剥き出しになったいたためで、当時の関係者の思い入れは無視され、耐震対策でコンクリートで固められたようです。あのまわりの石や木々はどうなったの?
 
 私が知っていれば、補強後も元の姿に戻したと思いますが、学校なんてものは教員は転勤していきますし、同窓会ですら学校の言いなりが現実で、空しい気持ちでいっぱいになりました。今週の日曜日に開催された防災訓練の際に気づきました。
 
                                   11月22日の一言

障がい児も普通学級へ行かせたい

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 この蜘蛛(クモ)は、最近私の事務所周辺に網を張る蜘蛛ですが、今年7月に我家から四国まで1200キロを走った時に私の車に網を張っていた蜘蛛か、同種の仲間でしょうが、蜘蛛の巣が張って庭が歩きにくいものの、四国を一緒に同行した仲間と思うと大切な家族のようになり、こんな気持ちが通じたのか大きくなってきました。
 
7月に記した蜘蛛の一言 http://blogs.yahoo.co.jp/s281218/46452190.html
 
 本日偶然にもテレビ放映された「ナニコレ珍百景SP」で、愛知県日進市の愛知牧場でも大量発生している「ジョロウグモ」が紹介され、我家も一緒の種類と判りましたが、害虫をどんどん捕って共存共栄が図れれば幸いですね。
 
 来年春に小学校入学を控え、重度のハンディを持つ小牧市の女児(6)と蟹江町の男児(6)の両親が2日、普通学級への入学を求める要望書を愛知県教育委員会に提出しているが、2人とも、入学後は看護師や一定の研修を受けた介護士らによるケアが必要になる事から、義務教育の理想と現実の狭間で、愛知県の教育力が試されています。
 
「普通学級入学を」
 
 女児の父親は、「地域の子とともに学び、成長し合うことが不可欠」と言い、男児の父親も「子どもの成長には友達が欠かせない」と訴えているが、添付した朝日新聞の記事と写真を見比べれば、2人の身体状況には大きな差があり、2人一緒の記者会見で一緒の結論を求めるのは酷な選択でもあります。
 
 一方では、「改正障害者基本法」の存在と、他の自治体で同様の児童が普通学級に入学した例が記されていますが、寝たきりで改善する可能性のない児童への義務教育の限界と、一緒に生活するクラスメートの教育環境にも影響を及ぼす事が対象となる保護者に認識されているのか疑問でもあります。看護師や介護士の介助なしに保護者が対応する覚悟があるかも判りませんが、義務教育だから行政が対応して当り前との訴えなら再考も必要です。
 
 平成17年の話となりますが、歩行困難な愛西市の幼稚園児の母親が出産するため、園児の幼稚園への送迎をお願いしたいと福祉関係団体から依頼され、家内が毎日の送迎を始めましたが、普通学級の小学校への入学については受け入れられず、遠くの養護学校へ進学することとなりました。
 
 この子供の場合は今回の子供たちよりも軽度と思われ、何とか近くの小学校に入学できないかと思いましたが、親の負担と「子供が将来自立するため」が優先されて、私は「今までの家内の頑張りは何だったのか」と不本意に思いましたが、厳しい現実に遭遇しました。
 
 この厳しさが、現在のNPO法人の設立と「福祉有償運送」の実現になりましたが、昨年には養護中学に進学する児童の関係者から、自宅からスクールバスの乗降場所までの送迎を打診され、「両親はできないのですか」と断ったことがあり、ボランティアと言えども制度が確立されると利用して当り前とされてしまいます。
 
 状況が判らないので善し悪しは判りませんが、津島市では障害を持った児童が普通学級への進学を希望すれば、可能な限り受け入れており、障がい児に対応するための小学校へのエレベーター設置の予算が9月議会でも認められました。
 
                                      10月3日の一言

隣の席から聞こえてきた雑言に

 本日23日は勤労感謝の日で、私が朝日旅行友の会のバス旅行を初めて企画したのが、昭和23年の勤労感謝の日だった事から、3年前の平成20年までは毎年バス旅行を企画してきた日でもありました。
 
朝日旅行友の会の行き先リスト 
 
 旅行会社が格安の会員募集を始めたことから、行き先をこだわるのが不利益となり、会員の高齢化によってバスよりもマイクロバス、マイクロよりもタクシー車両となり、今年は何所にも出かけない勤労感謝の日となりました。
 
 さて、夕方に行きつけの珈琲屋さんに出かけて、静かに雑誌を熟読していると、2人のお客さんが入ってくるなり、大きな声で喫煙席の場所を問いかけ、わざわざ私の隣の席に案内されてきました。
 この珈琲屋さんには禁煙席があり表示もされていますが、ほとんどのテーブルには灰皿が置いてあり、大きな声で聞くまでもありませんが…
 
 もっとも、喫煙できる席とは言っても、私自身はタバコを吸わないだけでなく、他人のタバコの煙が漂ってくる事が大嫌いで、吸える席とは言っても禁煙席でないだけの話で、この2人の煙と雑音は迷惑でしかありません。
 
 2人の会話に聞き耳を立てていた訳ではありませんが、この2人は現職の小学校の教員で、真面目に教育を考えている人が聞いたら、ひとこと苦言を呈したくなる内容であったことから途中からは真剣に聴いていました。
 
 「一学年45人だから、23人と22人の2クラスとなって、小さな学校で何事もなくやりづらい」と、少人数学級の不満と、津島市内の小学校名を出して、「(この学校の勤務が)病気になってしまう」と保護者が聞いたら怒りそうな発言もありました。
 
 津島駅伝と蟹江駅伝が同じ日であることや、○○さんとか○○先生などと、教員名が出されて話が盛り上がっていたが、最近はポケットに入る録音機もある事から2人の会話を録音でもされていたら、間違いなく問題とされる内輪の内容です。
 
 津島市の市議会議員としては一言苦言を呈したい内容であったものの、せっかくの勤労感謝の日であることと、この珈琲屋さんは私が平生から無心で座れる場所だけに、何事もなく退散しましたが、教員も公職であるだけに、自分も含めて公の場所での会話には注意も必要です。
 
 それよりも、市議会でも少人数学級を実現するために議論することがありますが、小学校の現職教員から少人数学級を否定するような会話を聞くとは思わなかったことと、過去に聞いた学校の評判を、実際に勤務する教員から聞いたことは今後の参考にもなりましたが…
                             11月23日の一言

恩師の金ピカの霊柩車を見送り

 本日は91才で亡くなられた恩師の葬儀があり、多くの参列者だったものの教え子の姿は見えず、教師仲間も(年齢から)ほとんどなく、私たちの小学校入学から3年生までの担任だった事から、50年の月日の経過を考えると悲しい別れとなりました。
 
 美人で厳しい恩師で、時には手の平で叩かれるような厳しい半面で、我々には母親のような存在で、退職後に自分で経営された保育園の園長も務められ、我家の前の道路に車を停めて訪ねてもらった事もありますが、遥か昔の姿が今のように思い出されました。
 
 「あんたはいつも隣に座らされていたなァ」と、幼馴染みに言われますが、女子をいじめたり泣かせたりすると、必ず教壇の先生の隣に座らされ、給食も食べさせてもらえず、全員の給食が終わった後で、皆に見られながら一人で給食を食べた苦い思い出があります。
 
 嘘をついたり乱暴な生徒には平手で叩かれていましたから、厳しい中にも使い分けて生徒を厳しく指導されていたと思いますが、教員退職後はやさしく可愛い小母さんに変身され、晩年はあまり外出もされなかった事から、訃報を知らない教え子がほとんどと思われます。
 
 さて、冒頭に「教え子の姿も見えず」と記しましたが、かつては連絡を取り合って同級生と一緒に参列していたものの、男子は仕事を持っており、女子にも「お節介」と思われるのも嫌で、最近は一人での参列となっています。出来の悪かった私が見送るのは皮肉のようですが…
 
 私にとっては小学校時代の恩師は全員が亡くなっており、本日も「私の担任だった」との一言に驚く人が存在し、もはや我々の年齢は「教え子」とは思ってもらえぬ年齢になっているのかも知れないと思った次第です。
 
 恩師に見送られた小学校時代の記憶は白黒でしたが、恩師を乗せて出棺した霊柩車は金ピカに輝いており、我々の母親たちから姉のように慕われていた恩師との別れが、我々の親の出棺ラッシュにならぬ事を祈りたいが…
                                 9月8日の一言

小学校の入学式にて

 本日は小学校の入学式が開かれ、来賓として参加してきた。我々の時代は白黒写真の影響からか、当時の様子も白黒でしか思い出せないが、カラフルな時代になった事を実感した。

 さて、来賓として出席したと記したが、実際には来賓の招待状が届いておらず、出席すべきかどうか迷いに迷っていたのでもあった。

 過去8年間の慣例から校区内の市議会議員は来賓として出席しており、今年に限って簡素化して省略となったとしても、それならそれで連絡があっても良いはずだが、とにかく案内は無かったのである。
 「忙しいから幸い…」とも思ったが、議会事務局から確認の電話を入れると、3月中に小学校から来賓の案内がしてあるとの事であった。案内のあった時期には、連日ボランティアの事務局長が事務所に詰めており、郵送したのか直接届けたのかは判らないが、小学校からの案内状は確実に届けられていなかったのである。

 忘れられたとは思うものの、自分から来賓の予定を聞くのもおかしく、議会事務局から確認してもらったのあるが、3人の議員のうち1人が欠席しており、私に案内が無かった事から、同じように忘れられていた可能性もあるが、事の真意は判らず、神のみぞ知るとしておきたい。

 入学式も卒業式も行事が簡素化される中で、来賓に対する見直しも必要である。当地方では葬儀の際に勝手に議員の名前を呼び上げる慣習も残っており、「読み上げても参列していなかったな」と知らない家の葬儀に欠席した苦言を知人から耳にした事もあった。一方で、最前列の来賓席まで丁重に案内されながら、来賓焼香に呼び出されないハプニングも過去にあった。こんな時にも、来賓席の存在そのものを考えさせられるのである。
                                  4月6日の一言

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