大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

弘法大師

仕事の帰りに八事山興正寺へ

八事山興正寺 中門

愛知県名古屋市昭和区八事本町78

五重塔と大仏

釈迦牟尼仏

手水舎

光明殿

納経所

本堂

普門園

大師尊像

仏様

能満堂への石段

園照堂へのエスカレーター

能満堂

伊藤萬蔵さん寄進の香炉

園照堂

伽藍遠景

茶堂竹翠亭への入口

墓地と奥之院への道

大日堂

お堂の周りを三回廻ります

八事山遠景

参道

弘法堂(開山堂)

ご縁日の案内

不動護摩堂(左)と東山本堂

東山本堂

八事山散策道

普照殿山門

普照殿

観音堂への石段

観音堂

総ての参拝を終えました

境内の仏様

境内の花 ハンゲショウ


尾張徳川家の祈願所として、歴代藩主とそれに連なる人々と深い縁を結んできた興正寺。その関係は、開山天瑞圓照和尚が八事の地に草庵を結んだことに始まります。

長い修行の旅のすえ、高野山に至り、弘法大師の五鈷杵を授かった天瑞和尚は1686年(貞享3年)、穏やかな起伏に松が茂り、豊かな水、静寂に満ちた八事の地に密教と戒律の寺の建立を発願しました。真言密教の教学・修行道場として、境内は西山普門院と東山遍照院に分かれ、東山は女人禁制の修行の場でした。
尾張徳川家二代藩主光友公は天瑞和尚に、六代藩主継友公と七代藩主宗春公は五世の諦忍妙龍和尚にそれぞれ帰依をされ、諸堂建立や多くの宝物のご寄進など力を注がれました。

時が流れ、現在、国の重要文化財に指定されている五重塔建立は、「藩主の寺」から「民衆に開かれた寺」へと変化をとげる契機ともなり、今なお、多くの参拝者をお迎えしています。

 本日は NPO法人の運転履歴という申請書類を受理するため 名古屋市天白区平針にある 愛知県運転免許試験場の安全運転センターを訪れました。

わずか10分の仕事で駐車料金 500円は高いと実感すると、数日前の西国巡礼の 高額 駐車料金が脳裏に浮かびました。

基本的に真言宗のお寺は駐車料金とか拝観料とは無縁のお寺が多く、そんな反動から帰り道に存在する八事山興正寺へ参拝することとし、本堂だけでなく奥之院や山内総てのお堂にお参りしてきました。

興正寺は高野山真言宗のお寺で、歴史は新しいものの愛知県では真言宗を代表するような存在で、誰もが本堂の中の御本尊の前まで進んで手を合わせられる庶民的な寺院です。

西国巡礼の観光客のような巡拝とは違う四国遍路の感覚で参拝してきました。久しぶりの感覚です(笑)

西国巡礼 第15番今熊野観音寺へ

5月10日(土) 奈良県
第6番寺から9番寺まで
5月11日(日) 滋賀県
第10番寺から第15番今熊野観音寺まで

昨日訪れた今熊野観音寺は京都の泉涌寺の中にある弘法大師が開基したお寺です。泉涌寺の山内にあるため、泉涌寺の塔頭寺のように思われますが、空海がここで熊野権現に授けられた十一面観音を自ら彫った観音像の胎内に納め、嵯峨天皇の勅願で堂宇を建立した歴史あるお寺です。

新那智山観音寺 鳥居橋 通称名は今熊野観音寺

京都市東山区泉涌寺山内32


子護大師像

像の周りは四国八十八ヶ所のお砂踏み

手水舎

鐘楼

五智の井 弘法大師の霊水

本堂と境内


境内はモミジの紅葉の名所

稲荷社と熊野権現社



大師堂

武見太郎氏の銅像

大講堂


観光寺院の多い西国三十三所の中で唯一拝観料も駐車場も無料の寺院で、開基した空海が熊野権現に授けられた観音像を本尊の胎内に納めたお寺だけに、修験者や山岳信仰の流れを残しており、本堂前の境内には神様の熊野権現の社が奉られています。


「西国の二ヶ寺で一万円近くかかって」

    「うちは駐車場も拝観料も無料だから」

「やっと四国遍路のような雰囲気で参拝できました」

    「秋のモミジの紅葉の時にも寄ってよ」

「はい、勿論ですね」


土曜と日曜日の2日間で初めて大きな声で読経し、納経所でゆっくりと会話を交わすことができましたが、西国だけでなく拝観料と駐車料金が当り前の京都市の中で、何度訪れても賽銭だけで巡拝できる環境と、真言密教と山岳信仰の雰囲気を残す雰囲気は西国巡礼で私が一番好きな環境にあります。



紙幣が飛んでいく西国巡礼を実感する一日へ

昨日に引き続いて西国観音巡礼です。

開門前から長い行列です
第10番三室戸寺

山門まで行列が続きます

やっと石段へ

本堂境内

アジサイ鑑賞の観光客


本日最初に参拝した三室戸寺の納経時間は8時30分からで、30分前に駐車場に到着したもののすでに駐車場は満杯状態で、開門を待つ人々で長い行列ができていましたが、覚悟して納経所を訪れると朱印を待つ人は殆ど無く、本堂へ参拝する人も皆無の状態でした。

ただし、西国三十三所会の監修した「西国巡礼」には500円と記された拝観料が千円になっており、わずか30分の駐車場の料金も千円徴収され、家内と2人の参拝で3千円と納経料の出費は参拝の対価としては「ぼったくり」としか思えない朝になりました。

第15番今熊野観音寺

大師堂

そんな中で次に訪れた第15番観音寺は、四国遍路と同じように拝観料や駐車場は無料のままで、観光客のいない雰囲気から久しぶりに「弘法大師」を身近に感じ、「秋のモミジの時期にも来てください」の一言に「はい、必ず」と素直に応えていました。

第11番醍醐寺 五重塔

大師堂

醍醐寺の駐車場自動清算機

「紙幣が飛んでいく」西国巡礼の典型は次に訪れた「醍醐寺」で、本来の参拝場所である上醍醐寺(拝観料無料)への厳しい山道が麓の醍醐寺観音堂で済ませられるものの、かつて千五百円だった拝観料が千円で澄んで喜んでいると駐車場の清算機が示した2千円の料金の高さにびっくりです。

門前にある民間の有料駐車場に一日最高六百円の看板があり、1時間程度で2千円もの駐車料金をお寺の運営する駐車場が徴収する現実は、観音堂巡拝だけに訪れる参拝者としては「お金持ちの西国巡礼」を象徴するような参拝です。

先に添付した三室戸寺と醍醐寺だけで家内と一万円近い出費は切実で、「貧乏人はお寺に来るな」と言って欲しい心境になってきます。

第14番三井寺 円城寺

長い参道

観音堂

第13番石山寺

長い参道です

大師堂
第12番正法寺 岩間寺

大師堂

本日最後の正法寺駐車場


貧乏人を実感させられる本日の西国巡拝となりましたが、本日は六ヶ寺のうち四ヶ寺が真言宗のお寺で、それぞれに大師堂が存在したことから、弘法大師と一緒に歩く「同行二人」のような自分に正直な巡拝になりました。


そして、ここから滋賀県を東向きに一直線で、永源寺から三重県いなべ市経由で一般道の運転を楽しみましたが、かつて自動二輪で走っていた当時とは道路環境が大幅に改善されており、まだまだ未踏の地が存在することから足を向けたいと思います。


こんな元気なままに「お大師」と行動できる日々が続いて欲しいものです。


聖天祭に三重県桑名市へ

三重県木曽岬町の桜並木

三重県桑名駅北側

大福田寺

山門前の出店

山門

鐘楼堂前

明日用のテント

境内

本堂

弘法大師

写真展

ご本尊前

聖天堂山門

聖天堂前の参道

明日の火渡り祭の準備中

火床つくり

祈願された護摩木です

明日の準備です

駐車場

桜と日の丸

お地蔵様

本日の写真です。

三重県桑名市の大福田寺(だいふくでんじ)で催された桑名聖天祭に行ってきました。

昨年9月に初めて大福田寺を訪れましたが、それ以来毎月1日は桑名へ走るようになりました。

本堂でご本尊の阿弥陀如来に手を合わせ、その隣に鎮座される弘法大師に読経し、文殊菩薩や観世音菩薩の真言をあげ、聖天堂で聖天様とお不動様に真言をあげます。

そして聖天堂にある福袋を新しい福袋と交換後に、納経所前で護摩木に名前と願い事を記入して参拝を終えました。
ちなみに 本日書き込んだ護摩木は明日お焚き上げになるとの話でした。

私の住む愛知県津島市にも多くのお寺があり、津島霊場会なる組織も運営されていますが、残念ながら参拝者が日常的に参拝する寺院は存在せず、ましてや 護摩木を日常的に焚き上げるお寺はありません。

明日開催される桑名火渡りまつりは、多くの参拝者が書き込んだ護摩木が焚き上げられ、桑名市内を稚児行列も練り歩きます。

私も参加予定でしたが、四国遍路で出会った知人に案内された四日市市の一心寺において開催される「火生三昧」(火渡り)に参加することになりました。

一心寺では明日午前10時より本堂にて大祭法要が厳修され、午後は境内にて柴燈護摩供を厳修し、火生三昧(火渡り)が行われます。

我家のさくらんぼの初咲き

本日の写真です。

我が家のさくらんぼが今年初めての花を咲かせました。まだ一輪だけですが週末から週明けにかけて花で満開になっていきます。

さくらんぼが花を咲かせると一週間後には事務所横の杏(あんず)が花を咲かせ、その一週間後に裏庭にある杏の大木も花も咲かせます。

ここからは2月26日の写真です。

西国4番施福寺への参道です

十三重石塔

仁王門

ここまでも十分歩きましたが…

やっと五丁です

まだまだ山道が続きます

弘法大師が得度の際に剃髪した場所です

ここからも148段の石段を登ります

本堂

ご本尊 千手千眼観世音菩薩

大提灯

梅園

標高530メートル

観世音菩薩

帰りも大変な道程です

仁王門が見えてきました

お地蔵様

やっと仁王門まで戻ってきました

仁王門にかけられた草履

ここからも先が見えません

満願滝弁才天

やっと駐車場まで帰ってきました


かつての西国巡礼には、山道を1時間以上かけてのぼる第11番上醍醐准胝堂がありましたが、火災により焼失したため麓の観音堂の巡拝になっており、現在の西国巡礼では第4番施福寺が一番厳しい山道になっていると思われます。

およそ40分ほどの行程ですが、初めて参拝したのは平成14年の40代のことで、その後の参拝と比較しても身体に堪える厳しい巡礼となりました。

「厳しいですね」
  「(笑)」
「半分でも足に堪えます」
  「一生懸命登ってはだめだよ(笑)」

5丁目付近で出会った西国巡礼のベテランからの助言で、ここは途中まで頑張らずに散歩する気楽な気持で歩くのがコツと聞いたものの、年齢とともに身体が悲鳴をあげるようになっており、この施福寺は西国だけでなく四国遍路と比較しても一番の難所になっているものと思います。

さて、週末は松本市の研修会に参加し、再来週は四国遍路の再開となります。

桑名市の聖天祭 大福田寺へ

大福田寺山門前の団子屋さん 


門前の団子屋さん 過去の一言です


 手水舎

真新しい鐘楼堂 

 本堂

聖天堂 

 聖天堂仏前

本堂の天井 に下がる瓢箪

本堂前の境内

昨日の写真です。

昨日は毎月一日に営まれている桑名聖天祭に訪れました。

大福田寺(だいふくでんじ)では毎月1日に午前10時頃より聖天堂にて護摩法要が行われますが、中村日赤の診察日だったことから11時に到着し、本堂のご本尊である阿弥陀如来と弘法大師に読経後、隣の聖天堂へ渡り廊下から渡ります。

聖天堂には聖天尊が奉られており、堂内の大黒天やお不動様に祈願して、出入り口に置いてある福袋をこれまで持っていた福袋と交換して参拝を終え、納経所前で護摩木に願い事を書き込みます。大福田寺の本堂や、聖天堂の天井は護摩を炊き上げた煤で真っ黒になっており、そのことからも多くの信者が参拝に訪れていることが判ります。

 ここからは大福田寺のフェースブックの写真です。

境内

本堂でのお勤め

聖天堂のお勤め

大福田寺のFacebook

毎月1日に門前へ出店している団子屋「朴乃木屋」さんは愛知県の業者で、9の付く日は名古屋市中村区の中村公園に出展しており、八事の興正寺や笠寺観音にも出店する名店ですが、来月の1日と2日は地元の犬山祭りに出店するためお休みとのことでした。

事務所の入り口にも貼りました


さて、添付したポスターは、来月2日に開催される火渡りまつりの案内ですが、一寺院の行事とは思えない桑名市の一大イベントと化しており、11月に参加した火渡り神事に感激したことから、今度は家内や知人を誘って訪れたいと思っています。

空海とわのいのり展が開催されている名古屋へ

本日はここへ行ってきました

ささしまライブ駅から見える名古屋駅のビル群

ささしまライブ駅

ささしまライブ グローバルゲート

ショッピング街のロビー

3階コンベンションホール

会場入口











ここから会場内は撮影禁止でした


詳細は下記をご覧ください。

ご加持も受けました





善通寺の記念品売り場

回廊の広場

名鉄バスターミナル入口

名古屋モード学園のビル

笹島交差点

 ナナちゃん人形

名鉄電車で

帰宅しました。

授かった御守り

記念のリストバンド

本日の写真です。

 弘法大師が誕生して1250年を記念して企画された「空海とわのいのり」展が開催された名古屋市のささしまライブに行ってきました。

 テレビコマーシャルと、電車のつり広告を見ただけで訪れたため、白衣と輪袈裟をジャンパーの下に着込んでいたものの、閑散とした会場にそんな人は存在せず、ちょっと拍子抜けの感は否めませんでした。

 今から10年前にも、愛知県の常滑市で四国八十八ヶ所霊場会の主催した出開帳が盛大に開催されており、そんなイメージを持ったまま、四国八十八ヶ所分の賽銭を袋に入れて訪れ、会場でジャンパーを脱いだ白衣姿で参拝しようと考えていました。

2013年03月16日


 現実には、弘法大師の生まれた善通寺や、満濃池を改修した場所にある神野寺など、東寺、神泉苑、高野山、慈尊院のお砂踏みだけで、お砂踏みの行列で1時間はかかると思っていた時間はあっという間に終わりました。

 しかし、人が少ないことで、会場内の僧侶と会話ができ、会場の入り口で記念品を販売されていた善通寺売店の女性と雑談を交わしていると、善通寺の前管長である橿原禅澄さんの特別講演会が4月に開催されるという情報をいただきました。

 名古屋では今週いっぱいの開催です。

豊川市の進雄(すさのお)神社と祇園山徳城寺へ

弘法大師の錫杖井戸 愛知県豊川市


豊川稲荷楼門 豊川閣妙巌寺


↓ 👇 ↓


圓福山薬師如来堂 豊川市門前町7

豊川稲荷楼門から百メートル東

参道の千本のぼり

本堂

そして、豊川いなり表参道へ

表参道 もうすぐ駅という所

ここで…

弘法大師の錫杖井戸の看板を見つけました

百メートル歩くと突き当りです

神社の右隣のお寺です

錫杖井戸の案内

曹洞宗祇園山徳城寺 愛知県豊川市豊川西町151

本堂

本尊は阿弥陀如来、三河准四国八十八ヶ所13番霊場、穂の国三十三観音28番霊場

修行弘法大師像

井戸への入口です

曹洞宗のお寺に弘法大師の幟が延々と続いています

ずいぶんと立派なミニ八十八か所です

そして、その奥に…

錫杖井戸のお堂

堂内に井戸がありました

八十八番の石仏


 日本中に弘法大師の名前を冠した井戸や湧き水が存在しますが、豊川市にも弘法大師のお告げで掘られたと伝承される井戸が存在しました。

 豊川稲荷の表参道の角に立てられた看板を見つけて訪れた物見遊山の参拝でしたが、何よりも曹洞宗の大きな寺院の境内に、真言宗のお寺の境内にあるミニ四国八十八ヶ所よりも大きなミニ霊場が残されていたことに驚かされました。

 境内にはお寺の歴史を示す案内板が存在せず、帰宅後にネット検索したところ弘仁13年(822)年の創立と記す発信があり、空海(弘法大師)の年表を見るとこの年は49歳で、前年に四国の満濃池の改修を陣頭指揮されていました。

 どちらにせよ、曹洞宗は鎌倉時代に中国から伝わった宗派であることから、それ以前からお寺が存在しており、空海ではないものの真言宗の高僧とご縁があり、そんな関係から井戸が残されて伝承されてきたものと思われます。

 そんなことよりも、隣にも広大な敷地を有する神社があり、地形的にはかつて徳城寺と一体ではなかったかと思われ、となりの神社にも足を運びました。

それにしても何と読めばよいものか…

豊川進雄神社

広大な境内

本殿

案内板


 豊川進雄神社(とよかわすさのおじんじゃ)は、愛知県豊川市豊川西町134にある神社。明治期以前は豊川牛頭天王と呼ばれていたが、神仏分離によって進雄神社に改称されたとあります。

 大宝元(701)年の大干ばつの時、旧鎌倉街道沿いの元宮の地に牛頭天王をお祀りして、雨乞いのお祭りを行ったことが始まりと伝えられています。毎年、7月20日に近い金土日曜日には豊川連区内の26町を東と西に分けて行う例大祭が斎行されます。

進雄神社の奉納綱火  出典: フリー百科事典『ウィキペディア』
1968年(昭和43年)指定[2]。例祭2日目の中祭で奉納される[2]。『花火縁起録』によると、万治3年(1660年)に小笠原四郎右衛門が長らく途絶えていた綱火を再興したという[2]明治時代までは境内ではなく本町で奉納されていた。拝殿から鳥居の間に、約120mの2本の麻綱を張り、麻綱に噴出煙火を仕掛けて走らせる[2]。なお、綱火のほかには手筒花火も奉納される[3]

 進雄神社は貞観十一年(869年)に各地で疫病が蔓延していた際、時の清和天皇の詔(みことのり・天皇の命令)により尾州(現在の愛知県西部)津島神社から神様をお招きして今の場所にお祀りしたのが始まりです。

 何も知らずに訪れた神社でしたが、進雄神社はすさのお神社と呼び、私の住む津島市の津島神社から神様をお招きしたと神社のホームページに記されており、明治以前は豊川牛頭天皇と呼ばれていたことから、となりの徳城寺とともに歴史を刻んできたことに間違いはありません。

駅前ロータリーのキツネ像

JR東海の豊川駅

先週土曜日の写真です。

 明治時代の神仏分離によって歴史が歪曲されたり、記録があいまいになってしまったことは残念ですが、豊川稲荷しか眼中になかった外出によって、いにしえの弘法大師や私の住む津島市とも行き来のあった歴史を感ずることができました。

 同じ仏教の中にも、自分の宗派以外は邪教と発する新しい宗派もありますが、私は神仏分離以前からの神様と仏様の境目のない参拝環境が大好きで、境内に大きな鳥居を有する豊川稲荷とともに、進雄神社や徳城寺の存在は久々に新鮮な外出となりました。
 

新たな出会いと豊川稲荷の参拝

午前11時24分豊橋行き特急 金山駅

午前12時32分 豊川稲荷口

名鉄豊川稲荷駅(右)と豊川駅

豊川稲荷の参道商店街

昼食

シンプルです

団子屋の出店

豊川稲荷山門 午後1時24分

うん?

明らかにボランティアの人?

救助犬

トーマスさんと救助犬グーニー


「頭の白さは一緒だね」
   「そう言われれば…」
          「毛の量は違うけどネ」(同伴の奥様かな、女性の声)
「何歳ですか?」
   「69歳です」
「ボクよりも一つ若いね」
   「じゃー、1952年生まれですか?」
「そう」

 アウンの呼吸という言葉があります。多くの参拝客が通るなかで、目が合ったとは言え会話が始まり、私たちが同世代で1歳違いであることと、トーマスさんが熊本地震で活躍した救助犬による救助活動をしていたことを聞かされました。

手渡されたミニレター

 「トルコへは救助に行けないから支援金を」と手渡された紙には、在名古屋トルコ共和国総領事館の銀行口座が記されており、各種の支援団体経由の寄付は何処に行くか判らないが、ここは直接トルコの現地に届けられるからと聞きました。確かに…



 トーマスさんは昭和50年にデンマークから来日し、愛知教育大学付属岡崎小学校で英語の教鞭をとっておられたため日本語も流暢ですが、何よりも同じ頃に生まれて同じ世代を送ってきたことを語り合いたくなるような人柄でした。


 さて、帰宅後にネット検索したところ、トーマスさんは平成11年に愛知災害救助犬協会というNPO法人を設立されており、平成23年に腰の手術後に障がい者になられていることから、平成19年にNPO法人を設立したものの、ボランティアの高齢化と自身の体調不良に悩まされている自分自身を重ね合わせて、ボランティア共通の苦労も実感させられました。


 トーマスさんは豊川稲荷の門前だけでなく、名古屋の三越前でも募金活動をされているとお聞きしたので、名古屋なら再会ができるかもしれませんね。


境内の出店

鳥居と参道

本殿

霊狐塚への参道

無数の狐像

豊川駅前ロータリー

豊川稲荷駅ホーム

国府行き普通列車 午後3時06分

岐阜行き特急 国府駅午後3時23分

弥富行き普通 金山駅午後4時14分

本日の写真です。

 本日は豊川稲荷とその周辺に点在するお寺にも参拝しました。高野山から遠く離れた豊川市にも弘法大師由縁の場所が曹洞宗のお寺にあり、ミニ四国八十八ヶ所まで存在することに驚かされました。

 豊川稲荷と周辺のお寺は明日以降に添付します。

雪にもめげずにウオーキングへ

全国各地の積雪とは違い多い所でこんな状態です

小筆から筆ペンへ

くれ竹筆 中字毛筆22号


弘法筆を選ばずと言いますが、硯と小筆にこだわって下手くそな字を書き続けてきたものの、お寺の写経に筆ペンが使われており、その使い勝手がひじょうに悪かったため、自分で良さそうな筆ペンを購入してきました。

かつて購入した筆ペンはサインペンの延長でしかありませんでしたが、最近の筆ペンは小筆の毛筆と遜色なく、むしろ墨の付け足しが必要なく、墨液の量が一定のため写経には向いていると思われ、とりあえず四国遍路の納め札は筆ペンを使うことにしました。

平成13年に初めて遍路を始めた時は、納め札どころか般若心経も唱えられないまま、人を追い越して納経帳へ朱印を受けるだけで良しとしていましたが、現在では徳島県の第23番薬王寺で販売されている納め札にこだわって使用しており、これからはボールペンではなく筆ペンで書き込むことにしました。

雪の中を無理して外出せず、「こんな時は家の中でやれることをやれ」との弘法大師の教えかも知れませんね。


自宅前は雪がありません

  少し歩くと雪が残っています

地域にはほとんど雪はありません

本日は長靴でウオーキングです

靴底が生ゴムのため長距離の歩行が可能です

本日の写真です。

「こんな雪で音をあげては何もできんぞ」の声も弘法大師の声で、四国の僻地にある岩窟や人も入らぬ山中で修行されたお大師様を考えると、あえて小雪(雨)の舞う中を長靴を履いて外出することにしました。

使用した長靴は、上高地のボランティアで使用している長靴で、上高地では一日中歩くと2万歩以上になるため、昨年はリハビリ中のため使用を控えていたものの、今年の上高地はすべて長靴姿で何でもできるボランティアとしてカムバックしたいと考えています。

問題は添付した長靴が私の生活圏のホームセンターや靴屋には見当たらず、ハイカラな見た目の良い長靴はあっても、靴底が生ゴムでできた添付したような長靴でないと、一日中履き続けると足腰が悲鳴をあげてしまいます。

本日の歩数は8千歩ですが、上高地が開山する4月までに、長靴で2万歩以上歩いても苦痛にならない身体に回復させていきます。

お千代保稲荷へ初詣

お千代保稲荷 岐阜県海津市


本日は岐阜県海津市のお千代保稲荷へ初詣に訪れました。

大渋滞からの参拝です

参道

やっと鳥居まで

境内入り口

まだまだ入り口

人、人、人

ろうそくの燈明場

境内も人、人、人

やっと拝殿へ

参拝

足止めに効果抜群?の礼拝所

精霊殿

出口の鳥居


人気店前の行列

お千代保稲荷の東側


弘法大師堂 美濃第31番札所 稲荷の西方にあります

南無大師遍照金剛 真言宗のお堂です


お千代稲荷の北にある社


車に戻ります

岐阜県から愛知県へ

本日の写真です。

子供の頃は父親の車に乗せられてお千代保さんへ参拝し、結婚直後は参道近くの駐車場が家内の伯母さんの嫁ぎ先のため無料で停めてもらい、その後は仲間と参道の居酒屋で飲み歩いて、最近では子供が独立して家内と二人で参拝するようになりましたが、私は神社の西方にある弘法大師堂と併せて参拝に訪れています。

お千代保稲荷は商売繁盛の神様ですが、最近の私は引退して年金生活者となっており、個人的な身体や困りごとは「お大師様」にお願いすることにしているため、「今年はお金に困窮しませんように」と全く地味なお願いをしてきましが…。

暦の中で「一粒万倍日」と「天赦日」に、私の運勢や吉方位占いが共通して縁起の良い日が近々あり、縁起の良い結果が出ることに期待することにします。

九度山の慈尊院と丹生官省符神社の伝承から

慈尊院山門

慈尊院は、弘仁七年(816)、弘法大師が、高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当たるこの地に、表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とされました。

詳細は→ TOP | 慈尊院 (jison-in.org)



土塀

多宝塔と鬼子母神

弥勒堂


香川県善通寺から我が子、空海を訪ねてこられた弘法大師空海の御母公、玉依御前(たまよりごぜん)が高野山上へ大師を尋ねようとされましたが、当時、大師自から七里(28km)四方を女人禁制としておられたので、山麓の当院へ迎えられました。
大師は、月に九度は必ず高野山上より二十数キロもの山道を下って母公を尋ねられたので、この地名を❝九度山❞と称されるようになりました。


詳しくは→ 女人高野について | 慈尊院 (jison-in.org)

ゴンの碑と弘法大師像

昭和60年代に、慈尊院近くに住みついていた紀州犬と柴犬の雑種である白い雄の野良犬がおりました。誰が教えたわけでもないのですが、不思議なことにその犬は高野山への参詣者の道案内をするようになったのです。当院から聞こえる鐘の音を好んでいたため、いつしかこの野良犬は「ゴン」と呼ばれるようになりました。


詳細は→ 高野山案内犬「ゴン」 | 慈尊院 (jison-in.org)

本堂

大師堂

多宝塔の奥が町石道入り口

狩場明神と空海の出会いの図

丹生官省符神社 正面参道119石段 一ノ鳥居

二の鳥居

拝殿

丹生官省符神社の草創は古く、弘仁七年(816)弘法大師(空海)によって創建されたお社であります。空海は、真言密教修法の道場の根本地を求めて東寺(京都)を出で立ち各地を行脚され途中大和国宇智郡に入られた時、一人の気高い猟師に出会い高野という山上の霊地のあることを教えられました。猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。


詳しくは→ ご案内|世界遺産登録 丹生官省符神社公式ページ (sakura.ne.jp)



真言密教の聖地となった高野山ですが、今から1200年前にこの地で空海は漁師(高野明神)と出会い、山上に霊地(高野山)があることを教えられるとともに、連れていた二頭の犬を案内役として現在の高野山まで連れて行かれたと考えると感慨深いものがあります。

そして、善通寺から空海を訪ねて高野山へこられた母親の玉依御前(たまよりごぜん)を、大師自から七里(28km)四方を女人禁制としていたため、この地で迎えられるだけでなく、月に九度は必ず高野山から会いに来られたと伝承されています。

八年前の話となりますが、この慈尊院から7時間かけて高野山まで歩いたことがありましたが、当時でも悲鳴をあげた町石道を今は歩く気力も沸かないことを考えると、大師は月に九度も往復していたという体力と強い精神力にも驚かされます。

2015年06月20日

大鹿一八「本日の一言」 : 慈尊院から丹生都比売神社へ (livedoor.blog)


2014年10月20日

大鹿一八「本日の一言」 : 高野山 町石道を金剛峯寺まで (livedoor.blog)


さて、高野山まで町石道を歩く人々を案内していた「ゴン」についても、1200年前に空海を高野山まで案内した2頭の犬の再来としか思えず、教えもしないのに高野山まで案内していた犬の本能と、女人高野と言われていた慈尊院へ病気治癒を祈願する女性が手を合わせている現代社会と、空海が存在した時代と目に見えない糸で結ばれているようも思えてきます。


今から15年ほと前の先達となる以前の話となりますが、空海が修行したと伝わる四国各地の修験場で空海が発したと言われるご真言を唱えていたことがあります。九度山の慈尊院のゴンと、丹生官省符神社の2頭の犬から当時の想いをよみがえらせてくれたように思います。

21日はお寺で写経と阿息観へ

本日の般若心経

参道の幟旗

津島市越津町 高野山真言宗弘盛寺

弘法大師と十三佛

本堂

境内

四国椿堂ゆかりのツバキ

本日の写真です。

毎月21日はお寺の日と決めてあるものの、上高地や四国遍路ばかり考え不在が続き、本日は久々に町内のお寺を訪れることができました。

久々に訪れてお寺の境内を見渡すと、私が四国別格霊場の椿堂さんから頂いて持ち帰った弘法大師ゆかりの椿の木が主を待つかのように迎えてくれました。

改めて案内板を読んで、この椿は弘法大師が地域で流行していた病を封じ込めたと言う伝説の椿で、町内のお寺でも病気平癒の案内が出されていました。

今年7月に膠原病と診断され、四国霊場や真言密教のお寺に病気平癒と手を合わせながら、町内のお寺だけでなく我が家にも一緒に持ち帰った「病気平癒」の椿があることを改めて認識させられました。


 
写経道場


さて、本日は阿息観に参加するためにお寺へ向かいましたが、ちょうど若い女性達が写経を始める時に訪れたため私も写経に参加することになりました。

2010年06月03日

かつては般若心経や座右の銘を書道展に出品しており、複数の知人から作品を所望されていたことを考えると今年になって膠原病を患ったとはいえ随分と書の腕が低下したことを本日の写経で実感させられました。

お寺でリラックス


真言宗のお寺のありがたみは、本堂でもリラックスしてくつろげる環境があることで、月に1回はお寺に座ってゆっくりすると心が落ち着きます。

阿字観掛軸ご本尊
阿字観道場 (本堂)
 阿字観(あじかん)とは、真言密教の瞑想法の一つであり、瞑想により「世界と自分はひとつである」ことを実感することです。 密教の根本経典の一つである「大日経」で説かれ、平安時代に弘法大師空海によって日本に伝えられた瞑想法です。

2011年07月21日

本日開催された阿息観は阿字観の入門編とも言える瞑想法ですが、過去のブログを振り返るともう11年も前からこのお寺に足を運んでいたことにびっくりさせられました。

上高地:日本一美しい自然の聖地 上祐史浩オフィシャルブログ     http://ameblo.jp/joyufumihiro/entry-11915696228.html

上高地の下見:自然の中での体験と陰陽の自然  2011-08-26     http://ameblo.jp/joyufumihiro/entry-10998562440.html


私は上高地で穂高連峰から降りてくる霊風を吸い込む阿字観を理想としていますが、私と同じ感覚で上高地を訪れていた上祐さんによって、上高地と真言密教の聖地高野山や四国遍路の延長線上にあることを確信させられました。

  

 抹茶とお菓子


 我が家は浄土宗の檀家ですが、かつてのお寺では当たり前だった環境が真言宗のお寺には存在し、私が元気で外出できるうちは四国のお寺や高野山だけでなく、各地の真言宗のお寺を訪れていきたいと思っています。

本日は久しぶりにリラックスできる一日となりました。

安曇野市の古刹 真言宗の平福寺

4日(木)の写真です。

長尾山 平福寺
長野県安曇野市三郷温4372

門前の柿

仁王門

参道
百体観音像
稲荷大明神
弘法大師空海が遣唐使船で日本に帰るときに、中国から付いてこられた中国の神様ですが、真言宗にはお稲荷様を祀るお寺が多く存在します。

太子殿 手前は十三仏石像
太子堂には聖徳太子が祀られています

聖天堂
 富貴を授けるという大聖歓喜天尊が祀られており、商売繁盛を祈願する人々に信心されているようです

参道

大杉

大銀杏

本堂

本堂前
 高野山真言宗の寺院である長尾山平福寺は、千年以上の歴史を持つ安曇野屈指の古刹です。その開基は不詳ですが、諏訪大社下社にあった神宮寺の僧・憲明阿闍梨(?-1396)の中興とされます。

お賓頭盧様

扁額

絵馬

絵馬

千匹馬

絵馬

案内板

本堂から見る参道

修業大師像

遍照殿(客殿)

納経所

大師堂

安曇野大師

集められた無縁仏など

幡隆上人の名号碑(パンフレットから添付)

一冠木門 (通用門)
この門は悪鬼から聖域を守る意味があるそうです

11月4日の写真です。

 長徳年間 (995年~99年) の創建と伝わり、本尊の木造聖観音菩薩立像は平安末期の作風を残し、鎌倉初期の重厚さがにじみ出ていると言われる長野県安曇野市では最古の仏像だそうです。長尾の観音様と昔から庶民に親しまれてきた広大な境内を持っていた古刹ですが、明治初期の廃仏毀釈によって観音堂を残して廃寺となったことは残念の一語です。

 平福寺を訪れる前日に参拝した満願寺 (725年創建) と松尾寺 (651年創建) も真言宗のお寺ですが、先月参拝した松本市の真言宗山派の牛伏寺 (ごふくじ756年創建) も含めて、弘法大師空海の真言密教が高野山から遠く離れた信州で伝承されてきたことに驚きです。

 牛伏寺では毎日護摩木を焚き上げる密教伝来の祈願が僧侶によって行われていますが、平福寺では地域をつなぐ交流施設が新たに建てられており、ダンスや武道だけでなく宿泊もできるうえに葬儀や通夜もできるという現代風の魅力あるお寺でした。

 上高地の行き帰りの道草ですが、信州には歴史のある古刹が点在することから、四国や高野山から遠く離れていても弘法大師空海の近くに居るような同行二人を実感させられるようになりました。これも来週15日の上高地閉山式が最終日となります。

桑名市の聖天祭へ行ってきました


三岐鉄道の電車です 

まさにローカル線です 

西桑名駅 


 お寺への参拝目的の桑名行きでしたが、ついでに桑名駅を訪れて三岐鉄道の西桑名駅と電車を鑑賞してきました。

三岐鉄道北勢線は、西桑名駅から阿下喜駅まで結んでいるローカル鉄道ですが、桑名市の近鉄富田駅から西藤原駅を結んでいる三岐鉄道と合わせて機会があれば是非とも乗車してみたい鉄道でもあります。

2021-05-26 

こちらは桑名駅 

JRと 近鉄が利用できます

 JR 関西本線の電車

 駅前

駅近くの安永餅本店 

桑名名物です 

店舗入口 

孫に買ってきました 


大福田寺山門 

本堂から見る山門 

聖天尊の幟 

 朱印 1日は金色
本日の写真です。

先月訪れた桑名市の大福田寺で毎月1日に開催されている桑名聖天祭に出向き、聖天尊や弘法大師に手を合わせてきました。

2022-09-04

 先週と先々週に京都の真言密教の聖地である東寺と仁和寺へ参拝してきましたが、多くの観光客と比較して参拝客はほとんどありませんでした。

本日の聖天祭は午前中から祈願した信者の護摩木が焚かれ、私が訪れた午後にも護摩木の煙とともに参拝者が灯したロウソクと線香の煙が本堂をおおっていました。

大福田寺では信者が祈願した護摩木がその都度炊き上げられており、本日も真剣に手を合わせる若者や県外からの信者が続々と参拝に訪れていました。

平成13年から四国遍路を始め、西国、坂東、秩父の百観音の巡礼をしてきたものの、自分自身の健康を祈願するのは初めてとなり、護摩木に書き込むご婦人の助言を頼りに護摩木を託してきました。

京都三弘法仁和寺と神光院へ


仁和寺 

 山門から中門までの参道

 五重塔



蓮華寺 


神光院

京都三弘法まいり

 大原 宝泉院



 宝泉院内の三地蔵 


大原女の小径

法然上人の腰掛石

本日の写真です。

先週訪れた京都の東寺に続いて、本日は三弘法の仁和寺と神光院を参拝し、同級生が住職を務める大原宝泉院を訪れて最近の近況報告に花を咲かせてきました。

本日は家内と妹に加えて、三男夫婦と孫の6人で京都を訪れ、亀岡のトロッコ列車を楽しみたい孫達とは別行動で参拝を続けました。

三連休の京都は観光客の列が繋がり、京都駅に近い京都水族館を待ち合わせ場所にしたため、合流に手間取るとともに、高速道路の渋滞し名古屋への到着は一時間ほど遅れましたが、久しぶりに孫と夕食を共にすることもできました。

三弘法と大原宝泉院については後日紹介したいと思います。

ちょっと寄り道の四国遍路


第九番法輪寺納経所前の猫


第十六番観音寺の仏足石


 仏足石とはインドのお釈迦様の足跡を石に刻んだもので、インドに現存する仏跡石野復刻で、礼拝した手で自分の悪い部分をさすると改善すると言われています。

第十三番大日寺の香炉


石の語り部と言われる伊藤萬蔵さんが寄進した香炉です。現在の愛知県一宮市で生まれ、名古屋で財を成した実業家で、全国各地の神社やお寺に石灯籠や香炉を寄進した人物です。

沖縄と北海道を除く全国各地の社寺で伊藤万蔵さんの寄進した鳥居や香炉を目にしますが、寄進先は1000基を超えるとも言われています。

第十二番大日寺

第十二番焼山寺

ニホンヒキガエル 

杖杉庵の弘法大師と衛門三郎


杖杉庵(じょうしんあん)は徳島県名西郡神山町に所在する高野山真言宗の寺院。本尊は地蔵菩薩弘法大師伝説の残る四国八十八箇所霊場番外札所である。

最初に四国八十八カ所を廻ったと言われる伝説の人物衛門三郎の終焉の地と言われています。

弘法大師に詫びるため21回も四国を廻ったと伝わりますが、当時は遍路道も整備されていない山や海岸線を歩いて21回も歩いたのは驚きです。

自分自身と比較するとまだまだ修行が足らないことを実感させられます。

第十一番藤井寺の八十八ヶ所

参道


 四国の八十八ヶ所の寺院にはそれぞれの奥の院が存在し、お寺の裏山に設置されたミニ八十八ヶ所も参拝して行くと大変な時間がかりますが機会があれば立ち寄ってみたいものです。


 第九番 法輪寺

 第八番 熊谷寺

 また来てね~
先週土曜日の写真です。

明日からの三連休も台風が近づく予報になっており、台風に逆らってまで四国遍路はできませんが、こんな環境下でも情報もないままに歩くお遍路さんが存在します。

さて、徳島県の阿波踊りに参加していた819人がコロナに感染したとの報道がありましたが、マスクをつけない歩き遍路の存在に警戒する地元住民も存在することから、お遍路と地元との良好な関係が続くこと祈るばかりです。

世界文化遺産 京都の教王護国寺東寺へ


 東寺 南大門と五重塔

 境内見取り図

 慶賀門 東門

駐車場

 宝蔵


 小野道風ゆかりの柳


大師堂入口 


 御影堂


 天皇陛下お手植えの松


 食堂



拝観入口  

 五重塔

 講堂

 金堂

 南大門



 南大門から見る金堂

 鎮守八幡宮

 社殿





 北大門


 開運大元師明王



 観智院

 洛南高校東付属中学

 洛南会館



 日曜日の写真です。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある真言宗総本山寺院山号は八幡山。本尊薬師如来真言宗の根本道場であり、教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。寺紋は雲形紋(東寺雲)。食堂(本尊・十一面観音)は洛陽三十三所観音霊場第23番札所。

東寺は、平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。


 四国八十八カ所のお遍路へ旅立つ前に京都の東寺へ安全祈願に訪れる慣習がありますが、江戸時代には京都にある弘法大師ゆかりの三弘法へ参拝する習慣があったようです。

現在でも弘法大師とゆかりの深い「東寺」「仁和寺」「神光院」、この三つの寺を”三弘法”と呼び、東寺で菅笠、仁和寺で金剛杖、神光院で納札箱を授かり、それを身に着けて人々はお遍路修行へと向かったとされています。

全国各地に三弘法や四国八十八カ所を模したミニ八十八ヶ所が存在しますが、車のない江戸時代に当時のお遍路は四国を歩くだけではなく、その前に京都の三弘法へ挨拶に訪れ、四国の満願を果たした後に高野山まで御礼参りに歩いたこと考えると、公共交通機関や道路が整備された現代社会においては、四国に行けないから近場の八十八ヶ所なんて参拝はお遍路のカケラもありません。

空海が62年にわたる修行や体験から伝承されてきた真言密教の原点に近づきたいと思わせる今回の東寺への参拝となりました。

台風のため四国遍路から京都の東寺へ


明石海峡大橋 

 淡路サービスエリア 上り

動画


 昨晩は神戸淡路鳴門自動車道淡路サービスエリア上り線側を車中泊の場所としました。


過去最大級といわれる台風14号のため、三日間の四国遍路を一日のみとし、強風により明石海峡大橋が通行止めになる可能性を考え、1日目に本州へ戻る予定でしたが、台風のスピードが遅くほとんど影響がなかったため車中泊に一番良いと思われる淡路サービスエリアにとどまりました。 


サービスエリアの中には夜間無人となる施設が多い中で、淡路サービスエリアは上下線とも24時間営業のため夜間でも明るく駐車場も広いため安心な施設と思えます。


神戸ポートアイランド 

 みなと異人館

 動画


 私の四国遍路は帰り道に高野山以外どこにも立ち寄ったことがありませんが、今回は病気療養中のため車の運転など家内の負担が多いため、神戸ポートランドに立ち寄りました。


こんな旅程を考えればこれからの四国遍路も楽しくなりそうです。


東寺 駐車場 

 動画

東寺 南門と五重塔
東門
動画

 食堂(じきどう)

大師堂 

 動画

五重塔 

 本日の写真です。

本日の京都行きは東寺だけでなく、ご縁のあるお寺やお店にも立ち寄る予定でしたが、弘法大師が残した真言密教の修業の場所であることと、これまで駆け足の参拝ばかりだったためここだけの参拝にしました。

詳細は後日に添付します。

21日はお寺の阿息観へ

 弘盛寺 愛知県津島市越津町

 参道の幟

 境内のお地蔵さん

日めくり 自性院常楽寺 香川県さぬき市


施人慎勿念 

  人に施してつつしんで思うことなかれ 

   (お世話をしてあげたという気持ちは持ってはいけない)  弘法大師座右の銘


善通寺の前管長樫原禅澄さんに頂いた日めくりカレンダーの21日分の言葉ですが、この日めくりには「笑顔一番」の表題がつく禅澄法話で、揮毫した禅澄さんの顔を思い浮かべれば自然と笑顔になりそうです。

毎月21日は町内の弘盛寺の本堂で阿息観に参加していますが、2ヶ月前から正座ができなくなり、椅子を用意していただいての座禅になりました。

さて、本堂でご本尊に届くように意識して大きくゆっくりと息を吐き、御本尊から戻ってきた白い清浄なる空気を身体いっぱいに吸い込んでいくと、本当に仏様と一体になったような錯覚を覚えてしまいます。


本日午前中に訪れた同級生が連れて行ってくれたお店の昔ながらの中華そばです。

こうした訪問者が無いと、闘病中の身体ではパジャマを着替える必要もありませんが、慌てて着替えて応対し、昼食後はお寺へ行くまでマックで時間をつぶしたものの、来客がなければ本当の病人になってしまいます。

お寺に座った後は家内と珈琲店経由で最後はかかりつけ医でリハビリを受けただけの一日ですが、そろそろ留守番だけでも午前中から行動する環境に転換したいと思っています。

家族に同行して稲沢市で参拝へ

 稲沢あじさいまつり

開催期間:令和4年6月1日(水曜日)から令和4年6月19日(日曜日)まで

開催時間:午前10時~午後4時

 大塚山性海寺
愛知県稲沢市大塚南一丁目33番地

 寺伝

 本堂 本尊善光寺如来
本堂内左側に弘法大師が祀られています

 稲沢新栄溝巡拝記念碑

 境内風景

 三宮社
鉢剣社、天王社、春日明神社が祀られています。

 山門前の出店

 稲沢市のあじさい祭りの会場となっている性海寺は、真言宗智山派の古刹です。

本日はあじさい祭りを見物に行く家族に同行しながら、実際には周辺の真言宗のお寺へ参拝することを目的に同行して行きました。

性海寺も真言宗のお寺ですが、同じ町内には不動明王を本尊とする恵明寺と、薬師如来をご本尊とする大塚のせんき薬師が存在します。

 稲沢市大塚南

Google 地図

 恵明寺
愛知県稲沢市大塚南3丁目37

 弘法大師像

 本堂 ご本尊は不動明王

 せんき薬師 西福I院
愛知県稲沢市大塚南3丁目28

 のぼり旗

 御嶽山も祀られています

 白龍王大神

せんき薬師は尾張地方の真言宗のお寺の中では一番といってもいいほど熱心なお寺で、連日加持祈祷が行われており、信者が寄進したのぼり旗が所狭しと立ち並ぶ姿に圧倒され、参拝者の供えた線香の煙がもうもうと立ち上っています。

境内には御嶽山や白龍様が祀られており、弘法大師や真言密教の伝統的香りを実感させられるお寺です。
  

 矢合観音
稲沢市矢合町2664

 境内

 本堂

 霊水
本日の写真です。

 最後に訪れた矢合観音はこれまで毎月のように訪れてきた観音様ですが、コロナ禍の外出自粛だけでなく、矢合観音のシンボルになっていたこだま食堂が閉店したことで随分と参拝する機会が減ってしまいました。

お寺ではなく一般の在家であることを考えても寂しいものがあります。

追突事故により両手が不調なため家族の外出に同行するしかありませんが、紫陽花の花鑑賞が三ヶ寺の弘法大師に導かれたような外出となりました。

21日は弘法大師の日です

我家の畑のイチゴ



 我家へ60年ほど配達してもらっていた「伊藤クリーニング店」が廃業することになり、本日最後となる私のシャツが届けられました。 


2014年10月09日


 過去の一言を確認すると、昭和38年には配達されており、開業直後から我家へ出入りしていたクリーニング店だけに一抹の寂しさは隠せず、父親は名鉄電車の運転手からレストランの支配人やサービス業へ移動し、本社勤務も続いたためクリーニングは必需品でしたが、私が3年前に議員を引退したため、わずかな配達は申し訳ないと思い、潮時も近いと思っていた中での廃業は悲しい現実となりました。

最期に届けられたシャツ


 10年程前に先代の経営者が亡くなられた時、配達されていた弟さんから我家の昔話を聞かされ、仕事上で出入りするだけてなく、地域の中に入り込んだ人間関係を実感させられましたが、コロナ禍だけではなくクリーニングを必要としない衣類が宣伝される社会環境の変化も実感させられます。

 さて、平成11年3月1日の早朝ですが、昭和52年元旦より一日も休むことなく我家の前に停まっていた新聞配送用のトラックがゆっくりと徐行しながら通過していきました。議員との兼職禁止による無念の廃業でしたが、新しい世界に旅立つための変化にも寂しさが募ったものの、人生の終末期となった現在になって、長年我家へ出入りしていた業者の廃業は寂しさよりも悲しい気持ちにさせられました。


本日の上高地 インフォメーションセンターの画像


上高地の遊歩道


上高地の天気


高遠城址公園の天気

本日の写真です。

 週末出かける上高地から発信される情報は多く、出かける前から現地の様子が見られるのはありがたいものです。土曜日は上高地で、日曜日は高遠城址公園を訪れる予定です。

 さて、私にとっての21日はお寺に行く一日となり、毎月真言宗のお寺の本堂に座って「阿息観」の瞑想法に参加してきましたが、今年1月からコロナの蔓延防止のため中止が続き、4ヵ月ぶりの阿息観参加となったものの、参加者は私一人となりました。

 家内は名古屋市で開催されている志賀弘法会の代表を送迎しましたが、我家にとって21日はお寺や弘法大師の姿を思い浮かべる一日となります。

邊地から邊路・遍路への移り変わり

本日の夕暮れ

鎮守の杜

本日の写真です。

 昨日の一言に、四国遍路について、「四国辺路道」から、「辺地修行」、「辺路」から「徧礼(へんろ)」、「遍路」に変わったことを紹介する新聞記事を転載しましたが、徧礼(へんろ)」が弘法大師聖跡の巡礼を表す言葉であることから、弘法大師の聖跡である四国霊場以外は遍路とは言わないことが判ります。

 四国八十八ヶ所霊場会の先達教典では下記のように案内しています。
 邊地・邊路・遍路として、日本古来の「常世の国」をめざす信仰は、やがて仏教と習合し海の邊(ほとり)を廻る道を踏む仏教修行者の行場として歴史に登場する。「今昔物語集」には「邊地」、「梁塵秘抄」には「邊道(へち)」、俊便房重源は「逿(へち)」という文字を用いている。

 それから後は「邊路(へじ)」という文字が江戸時代の宥辯真念まで用いらられる。真念はさらに「遍路」「邊路」「徧礼(禮)などを用い、「へんろ」と読ませるが、文字は一定していない。
 「遍路」が一般的に用いられるようになるのは江戸時代後期のことである。真念が「へんろ」とそれぞれの文字を読ませたとされているのは真念の道しるべ石に「遍ん路みち」と書かれていることによると思われる。

 そして、遍路道とは、大師巡礼するための遍路道。その中でも特に歩いて巡礼するための道を指す場合が多いが、本来は国道なども含めて遍路が歩くすべての道をいうと案内されています。とにかく四国遍路は四国四県の弘法大師ゆかりの寺院を巡拝する行為です。

 さて、四国には八十八ヶ所のお寺以外にも大師ゆかりのお寺は多く、別格二十霊場だけでなく奥之院や神社も存在します。

 ここに添付したのは、第73番出釈迦寺の奥之院となる「捨身ヶ嶽禅定」の朱印です。

3回分の重ね印


 捨身ヶ嶽禅定は、弘法大師が「真魚」と呼ばれた7歳の頃に標高481メートルの我拝師山に登り、「我れ、仏門に入りて一切の衆生を救わんと欲す。我が願い成就するものなら、釈迦如来よ、現れ給え。もし願い叶わぬなら、一命を捨ててこの身を諸仏に供養し奉る」と唱えて谷底に身を投じたと伝わります。

 この時に蓮華に座した釈迦如来が天女とともに舞い降りて、飛び降りた真魚を抱きとめたと言われる伝説の場所で、青年となった弘法大師が我拝師山の山頂で「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」像を刻んで安置し、ここで虚空蔵求聞持法を修法されたのが捨身ヶ嶽禅定です。

 出釈迦寺は弘法大師が開基したお寺で、捨身ヶ嶽禅定は出釈迦寺から約1時間ほど登った山頂にありますが、行場は奥之院からは鎖をたよりに岩場を100メートルほどよじ登った山頂近くにあり、出釈迦寺から奥之院までは車も利用できます。

2019年 10月13日

 2年前に訪れた時は相棒リマも同行させており、奥之院までは一緒に車へ乗せてもらいましたが、今となっては相棒との懐かしい思い出の場所になってしまいました。



 添付したのは四国八十八ヶ所霊場の奥之院の朱印の一覧です。今年は奥之院も巡拝していく予定を立てています。
                                  2月24日の一言

朝日新聞から四国遍路の記事を見つけて

本日の写真です。

 私の住む愛知県には、知多新四国八十八ヶ所霊場が存在するため、私の四国遍路についても四国まで行かなくとも知多のお遍路でも信心は一緒ではないかと知人から言われます。

「知多でも一緒なんだから知多にしたら」
       「お遍路は四国だけなんだけど…」
「知多でもお遍路だろう」
       「四国以外はお遍路とは言わないし…」
「テレビで知多もお遍路で歩いているぞ」
       「知多は弘法大師の聖跡ではないし…」
「知多にも弘法大師は来ているぞ」

 挙句には「あんたも愛知県の人間だから知多を廻ったら」とまで言われる始末で、弘法大師が知多半島や愛知県に来たという事実が何もないのに、最近はテレビでも知多半島に弘法大師が来ていたような報道まで存在します。

 四国遍路と西国巡礼、伊勢参り、金比羅参りと記された朝日新聞の記事に、四国遍路についての判りやすい報道があり、ネット上に公開されているものの、時間が経過すると検索できなくため、自分自身の記録のためにも転載しました。著作権なんて言わないで下さいね(笑)

ここからは朝日新聞デジタルからの転載記事です。

「四国遍礼道指南増補大成」

しこく遍路考

 江戸時代は、旅の時代です。「徳川の平和」「泰平(たいへい)の世」と呼ばれる時代に、街道が整備され、参勤交代を行う武士だけでなく、許可を得て多くの庶民が旅に出ました。藩が国であった時代、旅に出る時はパスポートである往来手形が必要でした。庄屋や檀那寺(だんなでら)が身元を保証し、全国の関所や村役人に向けて、関所の通行要請や死亡した場合の取り扱いなどを書きました。

 旅の隆盛とともに、西国巡礼や伊勢参り、金毘羅参りなど様々な案内記が発行され、人々を誘いました。四国遍路初めての案内記は、貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』です。重版を重ね、書名の漢字も僧侶の修行であった「辺地修行」につながる「辺路」から、弘法大師聖跡の巡礼を表す「徧礼(へんろ)」「遍路」に変わっていきます。大坂の荒野聖・真念は、出版動機を「弘法大師850年忌にあたり老若男女の初心者も四国遍路できるように」と記し、歩きやすい道を選んで紹介しました。自身も200基以上の道標を建て、遍路宿を整備して、四国遍路興隆に寄与しました。

 その後元禄2年(1689)、高野山の学僧・寂本の『四国徧礼霊場記』、同3年の真念『四国徧礼功徳記』が刊行され、同4年には歌舞伎『四国辺路』が京都で上演されており、畿内で四国遍路ブームが興っていました。

 四国遍路に来た人々の日記も残っています。現在確認されている江戸時代の遍路日記は51点で、多くは地名・距離・難所が記された単調なものですが、筆者が福岡県立図書館で発見した佐治家の「四国日記」は、最も記述内容が豊かな日記です。

 津屋崎村(福岡県福津市)の豪商佐治家一行は、7人連れで弘化2年(1845)2月22日に出発。小倉や萩、岩国の城下町、宮島を見物しながら、船で三津浜に上陸します。太山寺を打ち初めに四国を北上、55日で一周します。四国に入ると初日から登場するのが接待です。

 集計すると、最も多いのは、香物(漬物)21件と赤飯18件です。続いて、髪結い7件、銭5件、唐豆類5件、煮しめ4件、餅2件、わらじ2件があり、白飯・焼米・ひきわり飯・弁当・はったい粉・トウキビ・薬・茶・豆腐・吸い物が各1件記されています。旅に必要な、自分にできる接待を行っていることが分かります。

 接待主の名前も記されており、他村や他国からも接待に来ていることが分かります。伊予で13件、讃岐で25件(うち備中9件、備前1件)、阿波で11件ある一方で、土佐は0件となっています。藩から接待禁止令が出ていたためです。

 遍路日記は、その時代の巡礼や社会の姿を伝えてくれます。江戸時代から続く接待は、重要な四国の文化なのです。(愛媛大学「四国遍路・世界の巡礼研究センター」センター長・胡光)

                                             朝日新聞の転載です。


 さて、新型コロナの感染拡大がなければ、1月と2月のお遍路で13回目の満願になっていましたが、来月と4月の巡拝で結願を目指すことになります。
 私自身は納経帖の朱印や巡拝回数を増やすことよりも、弘法大師(空海)が今から1200年前に修行した聖跡で、弘法大師と同じ真言を唱えることによる霊響に期待しており、自分の背後から弘法大師の声が共鳴することは非科学的ですがそんな意識で読経しています。

                                 2月23日の一言

過去の書き込みにびっくりの千枚通し

千枚通しです


 過去に記していたヤフーブログを読み直すと、書いた自分自身でもびっくりとする書き込みが残っており、記されていない知人の名前と顔を思い浮かべて、当時のやり取りを必死に回想することになりました。

「医者は何とも無いと言うんだけど…」
      「じゃー、大丈夫なんじゃないの」
「それでも何かを食べると吐いてしまい、何も食べられないから」
      「そんなら、千枚通ししかないかなぁ」
「えっ、千枚通しって (怖いー) 

 大学病院の検査をはじめ、知り合いの医者を訪ね歩いても、「異常なし」と言われたものの、食事も一切口に入らないとの知人の話を聞き、「そりゃー、千枚通ししかない」との私の一言に、知人はびっくりした顔をしました。

 知人は「千枚通し」を、先の尖った穴を開ける「千枚通し」と思い、この「千枚通し」で身体に穴でも開けると思ってびっくりとしたようですが、私の紹介した「千枚通し」は紙と言ってもオブラートのように薄いものです。

2010年07月12日

 今から12年前のブログ記事ですが、ヤフーブログからライブドアブログに過去の記録として引っ越し、保存してあった記事が人気記事にランクされており、当時の何事もなく当たり前に記した記事も、読み直してみるとびっくりさせられる書き込みになりました。


四国遍路で入手した千枚通しです

四国別格12番延命寺の千枚通護摩符

四国八十八か所霊場78番郷照寺の千枚通し

四国64番前神時の千枚通し


 千枚通しについては、一般的には事務用の千枚通しを連想しますが、四国遍路や高野山を参拝する人たちには目にする機会も多く、小さなオブラートのような護摩符が千枚入っており、朝晩水と一緒に飲めば、病苦を除き妊婦さんも安産になると言われています。

 千枚通しの遠起を読むと、現在の別格12番延命寺において、松の木の辺りに一人のイザリが居るのを見た空海(弘法大師)が、何とかしてやろうと千枚通し霊符の1枚を授けたところ、微妙な霊験によって全快したことが現在に継承されてきました。

 過去に病院では何ともならないと言われる人たちに差し上げてきましたが、科学万能の現代社会においては効能は定かではなく、私自身も病苦に陥った際に飲もうと置いてあったものの、昨年10月に手術を受けた際にも眼中にありませんでした。体調不良が続く今こそすがりたいと持ち出した次第です。

 さて、四国遍路や真言密教を信奉する人たちには当たり前となる「三蜜」についても、最近ではコロナ禍の中で忌み嫌われる言葉ですが、弘法大師の教えでは身(体)、口(言葉)、意(心)がバラバラでなく、調和がとれているものを三蜜と言い、信心の目標にもされてきました。

 過去に私自身が記した一言ですが、プライバシーに配慮して記名が無いため、今にして思うと思い出せない記載も多くなってきたことを実感させられました。

                                1月5日の一言
                                                                       本日の体重 71,4キロ  徒歩数 4,563歩

長芋の一年間のわずかな成長に

収穫した長いも

この中で

本日の写真です。
今年4月25日の長いも
こんな具合に植えましたが…

 今年4月に植えた長いもですが、手の平ぐらいに成長していると期待して収穫したものの、実際には鉛筆程度しか成長しておらず、何とか寒い冬のあいだを保管して、来年にはもっと大きく成長させようと考えています。

 もっとも、私自身は成長させることには意欲を見せるものの、収穫した作物を食べるのが可哀想に思えて、食べ頃を逃したり、食べないままに翌年の子孫の成長に期待する繰りで、長いもは大きくなるのに数年かかるので、来年の成長に期待します。

さて、本日は…

弘盛寺 津島市越津町

勤行次第とお守りをいただきました

四国椿堂ゆかりの椿


 本日21日は真言宗の納め弘法会が各地で行われており、私はボランティアの患者搬送の合間に地元の弘盛寺へ参拝し、午後には患者さんを自宅へ搬送してから「阿息観」に参加してきました。

 今年は6月に4日間四国遍路に訪れ、11月に高野山へ参拝し、今月も3日間四国を訪れましたが、来年からは毎月1回を目標にして四国を巡拝したいと考えています。

 今年は入院して手術を受けたこともありますが、本人の承諾もないままに町内会の役員を強要された前時代的慣習から、コロナ禍で限られた行動期間ゆえに大きなストレスと化しており、自分のやりたいことはやりたい時にやる横着にも家族の理解が得られたようです。

                                12月21日の一言
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