木曽11宿 宮ノ越の宿場
巴淵
巴淵
長野県木曽郡木曽町日義
木曽川上流
木曽川下流
木曽川が巴状に渦巻く渕であったことからこの名がある。巴御前がここで水浴をしたという伝説が残る。
平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。
木曽11宿 宮ノ越の宿場
巴淵
巴淵
長野県木曽郡木曽町日義
木曽川上流
木曽川下流
木曽川が巴状に渦巻く渕であったことからこの名がある。巴御前がここで水浴をしたという伝説が残る。
東海大橋の対岸は岐阜県です
桃介橋 南木曽町
長良川と揖斐川の堤防に残る千本松原
係留されている漁船
治水神社
江戸時代の中頃、徳川幕府は、木曽三川の水害で悩む濃尾平野西南部の住民を救うため、薩摩藩にお手伝い普請を命じました。薩摩藩士らは、経験したことのない水の流れに苦しみながら、この地方の住民のため、多大の犠牲を払い、万難を排して工事を見事完成させました。
平田靱負大人は、この工事の総責任者です。幕府の検分が終わった直後の宝暦5年5月25日、工事の完成を見届けた大人は、美濃大牧の役館で命終されたのです。
永く埋もれていたこの大工事を世に広めたのは、三重県多度に住む西田喜兵衛です。彼はこの工事の様子を世間に知らせ、犠牲者の慰霊と顕彰に邁進しました。明治33年、近代の木曽三川の治水工事の成功式に併せて「宝暦治水之碑」が、時の総理大臣山県有朋公を迎えて油島千本松原に建立されました。
その後、平田大人を治水の神と讃える地元の人々の報恩感謝の熱い思いにより、昭和13年現在の地に、平田靱負大人を御祭神とする治水神社が創建されました。治水神社は、治水に尽力された薩摩藩士の功績を讃え、平田靱負大人の遺徳を偲び、犠牲となった多くの藩士達を慰霊しています。
社殿
2021-01-13
現在でも木曽川の東側(愛知県側)に三重県の木曽岬町が存在しますが、木曽川の西側にも愛知県愛西市の一部が存在し、岐阜県海津市の歴史民族資料館に展示される生活様式から、私の住む津島市や木曽川流域の尾張地区と共通する生活様式であることが判ります。
今でこそ三川の強固な堤防で分離されているものの、かつては水郷地域として舟による水路の行き来が行われており、コロナ禍によって県と県の境界がさかんに叫ばれるものの、三川の流域では同じ生活圏として歴史を刻んできました。
そんな想いで昨日は木曽川を渡り、岐阜県海津市から三重県桑名市(多度町)を訪れました。
2月21日の一言