大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

木曽川

旧中仙道の宿場宮ノ越を歩いて

木曽11宿 宮ノ越の宿場 

 巴淵

 巴淵

長野県木曽郡木曽町日義

 木曽川上流

 木曽川下流


木曽川が巴状に渦巻くであったことからこの名がある。巴御前がここで水浴をしたという伝説が残る。


 散策マップ

JR 宮ノ越 駅

改札口

駅ホーム

渡線橋

作業車両

義仲橋

木曽義仲館

義仲館正面

木曽義仲と巴御前

玄関

館内

館内ホール

日照山 徳音寺
長野県木曽郡木曽町日義

寺標

徳音寺入口 

 参道の三十三観音

山門
徳音寺は、長野県木曽郡木曽町日義にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は日照山。本尊は聖観世音菩薩。 

 本堂

 境内

 巴御前の銅像

 つらぬき石

 観音堂

源義仲公の墓所 

 中央奥が義仲公のお墓

 山門上 の鐘楼

 宮ノ越本陣周辺の町並

宮ノ越本陣跡 

 本陣 入口

 本陣建物

 本陣横の駐車場

 本陣横の農業遺産

疎水 

 本陣の案内板

明治天皇 宮ノ越 御膳水 

御膳水の案内板

日曜日(14日)の写真です。

木曽義仲
源 義仲 は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍と呼ばれている。 以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。 ウィキペディア

 先週日曜日に訪れた中山道 宮ノ越の宿場の写真を添付しました。

木曽義仲公が亡くなってから1000年以上経過していますが、この地から遠く離れた京の都まで、戦い抜いて進軍していったと考えると感慨深いものを覚えます。

宮ノ越を流れる木曽川を眺めて、川の流れと水の清らかさは当時と変わらないと考えると、今でも義仲公の姿が拝めそうな気持ちになってきます。

何よりも本陣等の歴史的な史跡が無料で開放されていることと、観光資源に頼らず自立して生活する 宮ノ越の人々の自尊心を感じずにはおれません。

この地の木曽川に流した木の葉が、何日で私の住む 愛知県に到達するかは分かりませんが、投じた木の葉を何日でも待ち続けてみたい心境と、川の流れに身を任せて自宅へ帰りたいと思わされました。

車載のカセットガスで珈琲タイムへ

東海大橋の対岸は岐阜県です


車で散歩 我家から30分

木曽川と養老山地

アフタヌーン珈琲

常時2日分の水と食料が積んであります

車中は春の環境です

東海大橋 木曽川と長良川に架っています

まもなく陽が沈みます

岐阜県との県境から見える濃尾平野

名古屋駅も見えます

本日の写真です。

本日は久々となりますが、岐阜県との境になる東海大橋まで出向いて、車内で水を沸かして珈琲タイムとしました。キャラバンの車内には数日間車中泊のできる食料と水が載せてありますが、軽自動車にも一食分の食料とともに、ドリップで摘出する珈琲も常時積み込んであります。

本日はインスタント珈琲にしましたが、温かい車内から眺める木曽川と養老の山並みを眺めながらの珈琲タイムは極寒の冬とは思えないホットタイムとなりました。

2020-11-18 
2020-10-15

2年前には生活習慣を見直すため朝5時30分に起床して、車で10分程度で到着できる景色の良い場所まで出向き、モーニング珈琲を楽しんでいましたが、昨年膠原病に罹患したこともあり、最近は朝の起床時間を遅らせ、8時15分に目覚ましをセットしてから気分で起きるようになりました。

せっかく飲料水が積み込んでありながら、外出する度に新しい水と入れ替えているばかりのため、これからは夕方のウオーキングと珈琲タイムを、時間があれば車で外出して周辺の散策と水を沸かして珈琲を楽しみたいと思います。

小回りがきき何所でも駐車のできる軽自動車は散歩の足代わりには最適で、車体の大きいキャラバンは駐車場の留守番が続きますが、しばらくは積極的に外出に心がけます。

祖父江町の田舎で夕暮れを迎えて

田舎の夕暮れ

西方

西北西方面

北方

東方

南方

夕陽を浴びる稲の切り株

センダンクサ

引っ付き虫の種子です

サトウキビ畑

懐かしい作物です

歯の丈夫だった子供時代がよみがえります

養老山地の夕暮れ

木曽川の松並木

養老から伊吹山(右)

本日の写真です。 

 上高地の外来植物で担当するセンダングサは、我が家の田んぼや畦道では迷惑な!植物ですが、田舎の夕暮れの中では輝いて見えてしまいます。

同じ光景や風景でも場所が変わると違って見えることを実感させられました。

今日は木曽川に近い祖父江町の田舎から真言宗の地泉院に立ち寄ってから帰宅しました。

木曽路の桃介橋 長野県南木曾町

桃介橋 南木曽町 


木曽路の国道19号南木曽町の木曽川に架かる橋で、1922年(大正11年)に完成した木橋で、橋の名は橋の建築主である大同電力(現関西電力)社長福澤桃介に因む。

福澤 桃介 慶応4年6月25日(新暦:1868年8月13日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月15日)は、明治末期から昭和初期にかけて日本の電力業界を中心に活動した実業家である。福澤諭吉の婿養子にあたる人物。


 国道から見える桃介橋

 左岸から渡ります

 橋と左岸の街並み

 木曽川 左岸と町並み

 木曽川上流を臨む

 案内板


 天白公園

天白公園から見える桃介橋

 駐車場

 公衆トイレ

 Coke ON

 Coke ON もありました。
天白公園は木曽路の国道19号線から木曽川を渡った対岸にあり、駐車場には公衆トイレも完備されているため車の休憩だけでなく、静かな環境は車中泊も可能と思われます。






 福沢桃介記念館

木曽川右岸から見える桃介橋 

木曽川右岸から見る桃介橋

 戻ります

 パターゴルフ場

 国道19号線

 15日の写真です。

 愛知県の我が家から上高地まで高山経由で高速道路を利用すると約3時間程度で到着します。

一方で、長野県側から愛知県へ帰ると時間は大幅にかかりますが、立ち寄る名所や史跡、観光地がふんだんにあり飽きることがありません。

木曽川を渡って治水神社と多度大社まで

長良川と揖斐川の堤防に残る千本松原

係留されている漁船

治水神社

 江戸時代の中頃、徳川幕府は、木曽三川の水害で悩む濃尾平野西南部の住民を救うため、薩摩藩にお手伝い普請を命じました。薩摩藩士らは、経験したことのない水の流れに苦しみながら、この地方の住民のため、多大の犠牲を払い、万難を排して工事を見事完成させました。

 平田靱負大人は、この工事の総責任者です。幕府の検分が終わった直後の宝暦5年5月25日、工事の完成を見届けた大人は、美濃大牧の役館で命終されたのです。

 永く埋もれていたこの大工事を世に広めたのは、三重県多度に住む西田喜兵衛です。彼はこの工事の様子を世間に知らせ、犠牲者の慰霊と顕彰に邁進しました。明治33年、近代の木曽三川の治水工事の成功式に併せて「宝暦治水之碑」が、時の総理大臣山県有朋公を迎えて油島千本松原に建立されました。

 その後、平田大人を治水の神と讃える地元の人々の報恩感謝の熱い思いにより、昭和13年現在の地に、平田靱負大人を御祭神とする治水神社が創建されました。治水神社は、治水に尽力された薩摩藩士の功績を讃え、平田靱負大人の遺徳を偲び、犠牲となった多くの藩士達を慰霊しています。

社殿

主神は治水の神・平田靱負正輔大人命

木曽三川公園

桃の花

再現された海津の農家

掘り抜き井戸

玄関口

母屋

案内板

納屋

上げ舟 屋根裏に船がつるされています。

母屋の説明板

クド

客間

吊り上る仏壇

水琴窟

舟屋

菜の花

揖斐川

昨日の写真です。

 今から200年前の話になりますが、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の分流によって地域の洪水を減らすため、遠く離れた薩摩藩士の貴重な命が失われていますが、三川の大きさを考えると大変な治水工事が江戸時代に行われていたことを忘れてはなりません。

2021-01-13

 現在でも木曽川の東側(愛知県側)に三重県の木曽岬町が存在しますが、木曽川の西側にも愛知県愛西市の一部が存在し、岐阜県海津市の歴史民族資料館に展示される生活様式から、私の住む津島市や木曽川流域の尾張地区と共通する生活様式であることが判ります。


 今でこそ三川の強固な堤防で分離されているものの、かつては水郷地域として舟による水路の行き来が行われており、コロナ禍によって県と県の境界がさかんに叫ばれるものの、三川の流域では同じ生活圏として歴史を刻んできました。


 そんな想いで昨日は木曽川を渡り、岐阜県海津市から三重県桑名市(多度町)を訪れました。


                                                2月21日の一言

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