大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

歴史

羽島市歴史民族資料館と観光交流センター

 羽島市歴史民俗資料館

 はしま観光交流センター ぐるっと

 円空仏風 木彫り護法神

美濃縞の手織り機

糸巻き機 

ぐるっと 

 歴史民俗資料館正面

 羽島市映画資料館

玄関 

 名鉄関係グッズ

資料館館内

旧竹鼻駅の写真

 駅全景

 開業当時の新幹線羽島駅

 資料館内部

漁具の 点字

円空仏 

昔の映写機 

写真暗室道具やカメラ 

竹鼻東映 

映画鑑賞ホール 

上映された映画のポスター 

 鶴田浩二終焉のポスター
昨日の写真です。

 昨日訪れた羽島市の歴史民俗資料館と観光交流センターぐるっとの写真です。

最初に訪れたぐるっとの1階には地域の名産品が売られており、2階には木綿の糸巻き機や、美濃縞の手織り機が置かれ、女性スタッフが案内や説明をされていました。




私の祖母たちが若い頃は、自宅前の小屋で機織りをしていたと聞きましたが、毛織物の産地であった津島市にはそれらを伝承する資料館が存在しません。


羽島市には歴史民俗資料館が存在し、かつての生活環境や漁具や農機具が展示されており、交流センターでは実際に機織り機が展示され実践できる女性スタッフが案内されていました。


さて、資料館の2階には映画資料館が存在し、かつて使用された映写機やカメラが展示されており、映画スターや俳優の映ったポスターが展示されています。





ここでは、毎月第2土曜日に一日2回、映画を上映しており、私が大好きな鶴田浩二さん主演の映画も昨年上映されていましたが、当面は鶴田さんが出演する映画の上映はないそうです。残念(笑)


私が議員時代に津島市にも歴史資料館を建設するよう質問したことがありましたが、当時の市長は「そんなもん造ってもガラクタの物置場になってしまう」と全く関心も示されませんでした。


木曽三川を挟んだ岐阜県側では地域の歴史やかつての生活環境を記録する資料館が点在していますが、羽島市の映画資料館の上映と美濃縞の機織り機は現役で稼働しており、市民参加型の施設だけに継承されていくことに期待したいものです。


13世紀の元寇の沈没船が確認され

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 長崎県松浦市沖の海底に、13世紀の元寇の沈没船がほぼ原形をとどめた形で埋まっていることが、20日研究している琉球大学によって発表された。
 元寇船は鷹島沖合の水深20~25メートルの海底にあり、約1メートルの砂泥に埋まって横たわった状態で見つかったとの報に、最近増加しているダイビング愛好家に呼びかければ、更に多くの貴重な遺物が発見できるのではないか。
 
元寇の船、長崎・鷹島沖で発見 原形とどめる
 
 元寇については1274年の文永の役から750年ほど経過しており、今回の沈没船は7年後の弘安の役かどうかも判らないが、学校の教科書で2度の蒙古襲来を記憶しているものの、実際の内容は添付した「猛牛の角」を見るまで知りませんでした。
 
 
 日本史に残る大事件ではあるものの、アジアからヨーロッパまで征服したモンゴル帝国の2度の進攻を守り切った認識しかありませんでしたが、その300年後に豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年)があったことを考えると身近な事件にも感じられます。
 
 我家の仏壇に残る過去帳を見ると、その100年後には先祖の戒名が残されており、全く無縁ではあるものの、今回の13世紀の元寇の沈没船まで私の中で歴史がさかのぼり、当時の社会に手が届くような錯覚を覚えました。
 
 来週末には久しぶりの四国遍路となりますが、四国遍路の源となる弘法大師はその500年前まで歴史がさかのぼり、私はその行場で弘法大師の残された経文を唱えて、大師の声と共鳴したいと考えていますから、なかなか歴史がつながらないはずです。
 
 
 本日21日は、地元のお寺で「阿字観」が開かれ参加しましたが、参加して4ヶ月目となるものの、一向に進歩が見られず、自分の呼吸法すら行えない現実と、確実に自覚できる身体の老化現象を実感させられる一日となりました。
                               10月21日の一言

墨俣一夜城は存在しなかったのか

 朝日新聞の夕刊学芸欄に『東海の古戦場をゆく』のコーナーがあり、本日は織田信長が岐阜の斉藤龍興を攻めた際に、家来の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が長良川のほとりに一晩で築いたと言われる「墨俣一夜城」について、史実として事実か偽作かとする記事があった。

 一晩で築いたとの話は別としても、常識としてハリボテの砦程度はあったかと思っていたが、専門家の間では史実そのものを否定する考察もあり、その根拠として信長の信頼できる史実である「信長公記」に墨俣一夜城の記載が一切存在しない事が記されている。

 大河ドラマの太閤記でも、秀吉の出世する手柄話として欠かせない場面であるが、歴史の中で本当にあったかどうかが定かでないとすると、近年再建された「墨俣一夜城」の天守閣に輝く黄金のシャチホコも色あせ、各地で続々と建てられている城も滑稽に思われてくる。

 織田信長が尾張を統一するまで大きな影響力と関係のあった津島地区にあって、信長が生まれたと言われている勝幡城跡については、30年前には木々に覆われていたが、最近になって木々が伐採されて石碑だけが残され、間際まで新築された住宅が建てられている。

 さて、私の住む越津町については、越津ネギ発祥の地である事はまぎれもない事実であるが、この越津ネギを栽培して生業としている農家がなく、主な生産地は他の市町村に移っている事から、越津町の存在を知らず、「我が町が越津ネギの故郷」と語った人と遭遇した事があった。看板でも掲げておかないと歴史は変えられてしまう可能性もある。

 越津町にはかつて古墳があり、愛知県の西尾張地方では一番南限の古墳と言われ、「六畳敷きの石」が存在したようだが、昭和40年代の耕地整理以後は場所が確定できず、農具が当たったといわれた石も所在が判らず、場所を示す古い地図が残されていた家も、探しても地図すら発見できないでいる。場所を特定できないばかりか、新築された分譲住宅の下敷きになっている可能性も高く、古墳の存在を知る人すら地元に存在しなくなっている。

 我家で生後3ヶ月から小学校5年生まで生活していた「大鹿(横井)庄一」についても、10年前までは幼馴染も存在し、我家が実家であった事も当然の事実であったが、今では我家の家族すら他人のように「お父さんの親戚」程度しか思われていないのでもある。(夫人が居なくなったらどうなるのか…)

 我家の2階には、横井さんの遺品である書や陶器が展示され、横井さんが戦地から我家に送ってきた直筆の手紙も展示(ミニ記念館にしてあります)してあるが、これも私が死ねばゴミ扱いとされる可能性も高く、我家の現実からも正しい歴史を残す事の難しさを実感させられています。
                                4月14日の一言

歴史探訪HP・ブログ

歴史探訪HP・ブログ


歴史徒然:日本の誕生・日本語のルーツ http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara



愛知限定歴史レポ http://blogs.yahoo.co.jp/area19192003

織田信長 http://blogs.yahoo.co.jp/inoko15di

大倭穴友会・全国の古墳を探索 http://blogs.yahoo.co.jp/anamorura55

渡邉誠毅氏の死を悼み

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 朝日新聞社の元社長で、日本新聞協会会長や大相撲の横綱審議委員会委員長などを歴任した渡邉誠毅(わたなべせいき)氏が11日に亡くなったとの報が記されてきた。
 私は遠くから数回お会いしただけだが、私にとっては学生時代に朝日新聞販売店を開業した当時の社長であり、もっとも印象に残こっている朝日新聞社の社長でもあった。新聞記事の経歴をみると、77年から84年にかけて社長を勤められている。私が開業したのが昭和52年(77年)であり、ちょうど同じ年から13年間社長として執務をとられていた事になる。
 東京の有楽町にあった東京本社を現在の築地に移転(80年)させ、コンピューターによる新聞制作システム(ネルソン)とオフセット輪転機の全面稼動を実施するなど、朝日新聞社の技術革新に務めるとともに、82年から84年にかけては日本新聞協会の会長も歴任しておられる。
 朝日新聞の創刊100周年が開業2年後の昭和54年(79年)にあり、その年の1月17日に大阪フェスティバルホールで第6回朝日会全国大会が開催され、後半の第2部には『宝塚歌劇団』によるグランドショー「朝日のひかり」が開演しているが、主役は『鳳蘭』である事から時代を感じずにはいられない。

 ちなみに、朝日新聞社では、学生や独身者の経営を認めていないため、私は実務者として当時は名鉄に勤務していた父親の名前を借りて開業したのであった。この学生による経営実務者そのものも珍しく、当時の幹部から可愛がられ、新聞社を訪問される著名人に会わせていただける事も多かった。
 皮肉にも、平成11年2月に廃業する事となったのは、朝日新聞社では店主と議員の併職が禁止されていた事による。廃業後の貧乏生活に、「なんとか、上手に(カミさんや息子の名前で)できなかったか」との声もあったが、今にして思えば、休みもなく厳しい仕事である新聞販売業と、二足のワラジでは政治活動が何も出来なかったと思っている。

 掲載した色紙は、創刊100年を記念した渡邉誠毅氏の書であるが、「人は石垣、人は城」の言葉は、戦国の世だけでなく、仕事としていた新聞販売にも通じるものがあり、現在の政治の世界にも通じる言葉でもある。
                                     2月12日の一言


掲示板の一通から広がる悠久の歴史

 本日は掲示板を開くと、私と同じ『大鹿姓』の方から投稿があり、兵庫県に在住と記されていた事から、10年頃前まで熱心に調べていた『大鹿』のルーツ調べがよみがえってしまった。
 掲示板を通じた返信やメールから、香川県にも多くの大鹿さんが存在する事が判り、仕事も一時ストップして過去の資料を見直したが、8年前の選挙時に「こんな古い物ばかり邪魔だ、ゴミだ」と言って人々に廃棄された物も多く、当時の資料は発見できなかったのである。

 当時は、と言うよりも数年前までは、大鹿と耳にすると時間に関係なく調べ、昔の古文書は文字そのものが読めないために苦労して徹夜のようになった日もあり、夢枕で千年を超える昔の身勝手な妄想を見たり、大鹿城のあった取手市には何度も電話をして、大鹿氏に関する膨大な資料を送ってもらった事もあった。(どうもそれも散逸している)

 私の予想では、大鹿の一族は三重県を発祥の地として、各地に点在していったと確信(思い込みかもしれないが)している。古文書や歴史書を読む限り、伊勢地方の大鹿一族より古い歴史が残されていないからであるが、私の住む津島市の大鹿で一番歴史があると思われる下切町の『大鹿家』には、その三重県の鈴鹿地方から当地に移ってきた顛末と、その後の家系図が古文書として残されており、専門家の解読の後に家人が確認のため当地を訪れている。

 我家は貧乏百姓である事と、仏壇にある先祖の過去帳も1702年の物故者までしか判らないが、大鹿の姓をもつ一人として興味は尽きないのである。
 私が大鹿姓のルーツに興味を持ったきっかけは、「大鹿は平和町(現稲沢市)の三宅から出て来た」と言う古老の一言であった。「なぜ大鹿姓の少ない平和町か」という疑問は、調べるうちに、口伝えの三宅が原因と判ってきた。

 三宅は屯田の意味があり、全国各地に存在し、『神名帖』という古文書に、伊勢の三重郡に『大鹿三宅神社』があり、その首(おびと・首長)だった大鹿首が記録されていた。この後から眠れぬ日々が続くようになってくる。
 過去に遡ると、次々と関係する系図や系統が続き、最後には宇多源氏として宇多天皇まで遡り、『敏達記』によれば、大鹿首から第30代敏達天皇へ娘が嫁いでおり、その孫が34代舒明天皇であり、結論的には大鹿の祖先は天皇家と関係する「天御中主尊」を祖とすると記されている。

 『天之御中主尊』とまでなれば、伊邪那岐神や伊邪那美神より古い神話の世界である。さすがに『古事記』まではと思いながら、『大日本天皇紀』や『修理固成の論理(古事記の哲学)』など、関係する書物を探し求めて調べていくと、神代の話、神話の世界にまで辿り着くのであった。
 こうなると病気である。関係ないものまで関係するように思えてくる。こんなところまで遡って中断していた大鹿のルーツ探しであり、横道に入りすぎて肝心な資料も散逸したままであるが、一通のメールから香川県の大鹿一族の存在を知り、悠久の歴史を想い起す一日となったのである。
                                  1月13日の一言 
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