旧中仙道奈良井宿
神社
日曜日の写真です。
日曜日に訪れた奈良井の宿を添付しましたが、三ヶ所の資料館と10軒の宿泊施設があり、五十軒以上の土産物店と食事処のある木曽路を代表する宿場町です。
木曽11宿には奈良井から次の塩尻方面の宿場は贄川宿となっていますが、奈良井と贄川の間には木曽平沢宿が存在しており、今回は通過していますが贄川宿より昔ながらの建物が残されており、次回の上高地の帰り道に立寄ってみたいと思います。
奈良井宿から木曽平沢宿は徒歩で30分程度の距離にあり、木曽路の難関となる鳥居峠から薮原の宿場まで三時間程度で歩けると案内されていることから、JR木曽平沢駅から奈良井の宿を通ってJR薮原駅まで歩くと江戸時代の雰囲気が味わえる魅力を感じます。
車は国道19号線で鳥居トンネルを通過してしまいますが、車で鳥居峠を目指すのも道中の一里塚や茶屋等の存在から魅力あるコースで、先週立寄らなかった奈良井宿に保管されたSLとともに訪れてみたいと思います。
長命寺は推古天皇27(619)年に創立された天台宗系で聖徳太子が開基した西国観音巡礼第31番のお寺です。
長命寺の建つ奥島山はかつて山そのものが神の宿る御神体として信仰されており、本堂奥の山腹には多くの巨石も残されており、神仏混合の歴史をとどめていました。
かつては歴代天皇の健康長寿が祈願されたことが長命寺の由来とのことですが、近江商人や奉公人の出世と長命も祈願する観音様として信仰を集めたお寺で、境内の鳥居をくぐると稲荷大明神や太郎坊大権現が奉られていました。
長命寺から眺める琵琶湖や麓の近江八幡の街並みから、いわゆる日本の山寺らしい雰囲気を実感する参拝となりました。
今から20年ほど前に、伊勢の古族大鹿氏と由縁のある古墳とともに散在する大鹿三宅神社を訪れており、昨日はそれ以来となる訪問となりましたが、ネット上で表示される「大鹿三宅神社」に到着したものの、以前に訪れた場所とは全く違っていました。
それでも、正真正銘の大鹿三宅神社ではありましたが、20年前に訪れた場所を探して再度ネット検索すると、鈴鹿市国府町の三宅神社が表示され、「国府」ということで椿大神社から走ってきた道を戻って三宅神社へ走りました。
そんな訳で3ヶ所目に訪れた神館神明社は、大鹿の大の字も判らない神社だったため、周りのお寺をまわり、神社の隣にお住まいのご夫人に連絡を取ってもらい確認すると、かつての十日市町にあった「大鹿三宅神社」をここにまとめて合祀した神社とわかりました。
こうなると20年前に訪れた大鹿三宅神社が何処に存在するか全く判らなくなり、再度鈴鹿市を訪れて大鹿(おおか)氏の基本から調べることにしました。
「大鹿は三宅から来た」という伝承と、私の住む津島市の下切町に現存する「大鹿」家に残された、古に現在の鈴鹿地方から海路で津島市に来たと記された古文書から、現在の鈴鹿市にある三宅町周辺から来たと考えるのが自然で、ここに存在する三宅神社が20年前に訪れた場所であることを祈るばかりです。
「三宅」とは古代朝廷の直轄地である「屯田(みやけ)」に由来すると見られ、鈴鹿市三宅町の方が鈴鹿の屯倉および式内社「三宅神社」の所在としては妥当と思われます。
一方で、四日市市に近い鈴鹿市の国分町にある伊勢国分寺跡や、木田町には大鹿山1号墳や古墳群とともに鈴鹿市考古博物館が存在するため、今から千五百年以上前の古族大鹿氏や、第30代敏達天皇の孫で大鹿の血脈となる舒明天皇や天智天皇の時代から勉強しなおす必要も実感させられました。
大鹿のルーツを調べている人が、現地に問い合わせると「愛知県の大鹿さんが詳しい」と言われて全国から連絡を受けていた時期もありましたが、私の発信した「大鹿一族の歴史探訪」は最近全く更新されておらず、私自身も過去の記憶は全く喪失してしまいました。
一方では、かつては皇學館大学だけと思っていた伊勢大鹿氏の研究も、各地の大学関係者や鈴鹿市の考古博物館など研究者によって大鹿廃寺や古墳が調査されており、これからは鈴鹿市へ足を運んで伊勢の大鹿氏の全体像を勉強したいと思います。
また、一時は全国で活躍される大鹿さんとの交流も心がけていましたが、複数の先輩たちが鬼籍に入ってしまわれ、新たに活躍される大鹿さんの存在も把握していきたいと思います。
椿大神社 三重県鈴鹿市山本町字御旅1871
本日の写真です。
本日は三重県鈴鹿市にある椿大神社(つばきおおかみやしろ)を訪れました。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
社伝によれば、垂仁天皇27年、倭姫命に下った神託により、猿田彦大神の墳墓の近くに「道別大神の社」として社殿が造営されたのを創始とする。社伝によれば、猿田彦大神の末裔の行満大明神は修験道の開祖であり、役行者を導いたとのことで、中世には修験神道の中心地となった。なお、現宮司は、行満大明神の末裔であるという。猿田彦大本宮とも呼ばれる。猿田彦大神を祀る神社の総本社とされる。
本日の主目的は椿大神社ではなく、大鹿一族発祥の地とされる鈴鹿市の大鹿三宅神社で、今から20年ほど前に訪れていますが、最近になって大鹿一族に関する問い合わせが複数あったものの、最近は運営する「大鹿一族の歴史探訪」も眠らせたままになっていました。
私のHPです
椿大神社の後で訪れた大鹿三宅神社は、およそ20年ほど前に訪れた場所とは大きく離れており、住宅地で規模も小さい神社だったため、再度ネット検索して別の場所にある三宅神社を訪れたものの、こことは違うため更にネット検索して3ヶ所目の神社を訪ねました。ここも大鹿由縁ではあるものの、20年前に訪れた大鹿神社とは違いました。
さて、20年前に訪れた大鹿三宅神社は何処にあるのでしょうか?
顛末は明日以降に転載したいと思います。
蜂須賀小六の生誕の城
木曽川の川並衆であった蜂須賀氏の城で、蜂須賀小六(正勝)の生誕地と云わります。
小六は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、最後は阿波徳島藩の藩祖になっています。
本日は蜂須賀子六の居城だったあま市の蜂須賀の郷を訪れました。3日前の日曜日に娘の家族に誘われてニッポン城めぐりのアプリを入れましたが、近くのお城や城址くらいは訪れてみたいと足を運びました。
蜂須賀村由来記によると弘法大師が菅安の地で白山大権現に会ったことにより白山社を祀ったのが始まり。昭和29年に現在地に遷り、菅安社と改名され今に至る。村社。
池鈴山蓮華寺 真言宗智山派
愛知県あま市蜂須賀大寺1352
新たな堂が造営中
蜂須賀家の菩提寺である蓮華寺
弘仁年間(810年 - 824年)空海の開山により創建されたと伝えられる[1]。この地から出たとされ、阿波国徳島藩主となった蜂須賀氏の帰依を受け、尾張徳川家からも寺領が安堵されている。蜂須賀小六の菩提寺であり、蜂須賀小六・家政親子の位牌が安置されている[1]。仁王門は家政の寄進と伝わる。南西には、蜂須賀小六の旧宅や1ヘクタールに及ぶ蜂須賀城があったと伝わっている。
地元の伝承では、弘仁9年に弘法大師が熱田神宮の神託により創建したと伝えられているが、弘仁9年(818年)は弘法大師が45歳にあたり、その2年前に高野山開創の勅許が出たばかりで、勅許後始めて高野山に登って翌年に伽藍建立に着手していることから、まったく史実とは違う伝承ではあるものの、弘法大師の弟子となる高僧の影響を受けて建立されたものと思われます。伝承とは言えこんなに古い歴史があることから、実際の高僧の名前や記録が残っていないことは残念です。
ミニ四国八十八ヶ所霊場
弘法大師の錫杖井戸 愛知県豊川市
豊川稲荷楼門 豊川閣妙巌寺
↓ 👇 ↓
圓福山薬師如来堂 豊川市門前町7
豊川稲荷楼門から百メートル東
参道の千本のぼり
本堂
そして、豊川いなり表参道へ
表参道 もうすぐ駅という所
ここで…
弘法大師の錫杖井戸の看板を見つけました
百メートル歩くと突き当りです
神社の右隣のお寺です
錫杖井戸の案内
曹洞宗祇園山徳城寺 愛知県豊川市豊川西町151
本堂
本尊は阿弥陀如来、三河准四国八十八ヶ所13番霊場、穂の国三十三観音28番霊場
修行弘法大師像
井戸への入口です
曹洞宗のお寺に弘法大師の幟が延々と続いています
ずいぶんと立派なミニ八十八か所です
そして、その奥に…
錫杖井戸のお堂
堂内に井戸がありました
八十八番の石仏
日本中に弘法大師の名前を冠した井戸や湧き水が存在しますが、豊川市にも弘法大師のお告げで掘られたと伝承される井戸が存在しました。
豊川稲荷の表参道の角に立てられた看板を見つけて訪れた物見遊山の参拝でしたが、何よりも曹洞宗の大きな寺院の境内に、真言宗のお寺の境内にあるミニ四国八十八ヶ所よりも大きなミニ霊場が残されていたことに驚かされました。
境内にはお寺の歴史を示す案内板が存在せず、帰宅後にネット検索したところ弘仁13年(822)年の創立と記す発信があり、空海(弘法大師)の年表を見るとこの年は49歳で、前年に四国の満濃池の改修を陣頭指揮されていました。
どちらにせよ、曹洞宗は鎌倉時代に中国から伝わった宗派であることから、それ以前からお寺が存在しており、空海ではないものの真言宗の高僧とご縁があり、そんな関係から井戸が残されて伝承されてきたものと思われます。
そんなことよりも、隣にも広大な敷地を有する神社があり、地形的にはかつて徳城寺と一体ではなかったかと思われ、となりの神社にも足を運びました。
それにしても何と読めばよいものか…
豊川進雄神社
案内板
豊川進雄神社(とよかわすさのおじんじゃ)は、愛知県豊川市豊川西町134にある神社。明治期以前は豊川牛頭天王と呼ばれていたが、神仏分離によって進雄神社に改称されたとあります。
大宝元(701)年の大干ばつの時、旧鎌倉街道沿いの元宮の地に牛頭天王をお祀りして、雨乞いのお祭りを行ったことが始まりと伝えられています。毎年、7月20日に近い金土日曜日には豊川連区内の26町を東と西に分けて行う例大祭が斎行されます。
進雄神社の奉納綱火 出典: フリー百科事典『ウィキペディア』
1968年(昭和43年)指定[2]。例祭2日目の中祭で奉納される[2]。『花火縁起録』によると、万治3年(1660年)に小笠原四郎右衛門が長らく途絶えていた綱火を再興したという[2]。明治時代までは境内ではなく本町で奉納されていた。拝殿から鳥居の間に、約120mの2本の麻綱を張り、麻綱に噴出煙火を仕掛けて走らせる[2]。なお、綱火のほかには手筒花火も奉納される[3]。
進雄神社は貞観十一年(869年)に各地で疫病が蔓延していた際、時の清和天皇の詔(みことのり・天皇の命令)により尾州(現在の愛知県西部)津島神社から神様をお招きして今の場所にお祀りしたのが始まりです。
何も知らずに訪れた神社でしたが、進雄神社はすさのお神社と呼び、私の住む津島市の津島神社から神様をお招きしたと神社のホームページに記されており、明治以前は豊川牛頭天皇と呼ばれていたことから、となりの徳城寺とともに歴史を刻んできたことに間違いはありません。
駅前ロータリーのキツネ像
先週土曜日の写真です。
明治時代の神仏分離によって歴史が歪曲されたり、記録があいまいになってしまったことは残念ですが、豊川稲荷しか眼中になかった外出によって、いにしえの弘法大師や私の住む津島市とも行き来のあった歴史を感ずることができました。
同じ仏教の中にも、自分の宗派以外は邪教と発する新しい宗派もありますが、私は神仏分離以前からの神様と仏様の境目のない参拝環境が大好きで、境内に大きな鳥居を有する豊川稲荷とともに、進雄神社や徳城寺の存在は久々に新鮮な外出となりました。
10年に一度の寒波が襲来すると気象庁が呼びかけていますが、ここ数年の間に過去最大との予報を何度も聞かされたようにも感じ、昨年末に今シーズン最大の寒波とも表現されていたことを考えると、信憑性には疑問もありますが、膠原病に罹患している我が身には足先の凍るような寒さから猛烈寒波の襲来を予感させられます。
ここからは昨日訪れた多度大社の写真です。
昨日の写真です。
2021-10-03
過去に記した団子や五平餅の一言の一覧
2年前の夏から五平餅の食べ比べを始め、東三河や岐阜県や木曽路の五平餅を添付してきましたが、各地で一番美味いと宣伝されているものの、お店の対応が横柄であったり、大量に焼いて作り置きされていると味気なく2度と行きたいとは思えません。
過去に記したお店で何度も訪れているのは、個人的な趣向はあるものの、私自身が食べたいと思える団子屋さんやお店であり、昨日訪れた「車久米穀店」は餅米の団子ですが、何度でも訪れたいと思える名店です。
農家で生まれ育った私にとって、自家製の米はとても丹精込めて育てたとは言い難く、地域で味を自慢する人も存在しますが、最近ではほとんどの農家が耕作を営農専門業者に委託しており、味についても食べ比べると確実に劣ります。
そんな感覚を一掃させてくれるのが車久米穀店で、自家製米があるので買うことはありませんが、米を購入するならこんな米穀店で食べ比べみたいものです。
西野川
2日前の日曜日の話となりますが、御嶽山黒沢口4合目の日の出滝に隣接する明栄講霊神場へ午前7時に手を合わせたいと車を走らせると、目的地を目前にして道路は完全なる凍結状態で、まだ薄暗い道路を確認しようと車を降りると靴が滑って一歩も歩けない状態でした。
一瞬にして御嶽山は観光地ではなく多くの霊神の碑が居並ぶ霊山であることと、自分の都合だけでまだ陽も昇らぬ凍結した道路を進む私自身への神様と祖父(道成霊神)の戒めかもしれないと閃き、御嶽山の入り口となる里宮にも参拝していない無礼な自分への警鐘と頭に閃光が突き刺さったように感じました。
そんな訳で一度通った道路を戻って里宮の御嶽神社の社務所前に車を停めました。
そしてこれで今日の御嶽山も終わりかもしれないと思い、これまで急ぎ足で参拝を終えていた神社周辺を眺めると、社務所の裏側に石段があり観音像があるのを見つけましたが、観音像や祠に気がつく人は居ないと思われます。
西野川にかかる大社橋を渡ると、かつては現在の道路の北側に橋があった遺稿が残っていることが判り、私が初めて御嶽山へ訪れた際には通っていたことと、神社の本殿横から進む御嶽古道をかつては先達について歩いていたことも偲ばれてきました。
さて、御嶽山の頂上にある奥社は宝亀5年(774)に勅命を受けた信濃国司によって山頂に祈願したのが始まりと言われていますが、里宮となるこの御嶽神社も奥社と里社若宮とともに三社を以って御嶽神社と称されており、古い歴史を考えるとあまりにも疎かにしていたことが判ります。
かつては、御嶽山に参拝する人は限定され、しかも登拝する祭には「百日間精進潔斎」という厳しい修業をしていたことを考えると、観光やスキーで訪れる車と一緒になって自由に参拝できる現代社会の甘さも実感させられます。
私の祖父が大祭を前にして真冬に百日間も冷たい水を被って修業していた御嶽山の先達の厳しさを、何の修業もしないまま数回巡拝すれば先達となる四国や西国巡礼の甘さも、同じ先達という言葉は一緒でも全く次元の違う信仰の奥深さも思い知らされます。
そんな想いをめぐらせていると、鉛色で包まれていた御嶽山の霧が晴れて、わずかでも山頂の姿が拝めるようになり、輝くような陽射しによって立つことも出来なかった道路の凍結が溶け出し、神様の登拝の許しが出てきたように(身勝手に)悟り、再度霊神場を目指しました。
そして、到着後は濃い霧に包まれていた霊神場にも陽が射し、講祖覚明霊神や諸霊神に参拝していると、祖父の霊神場の隣にある「明栄講ろ組」の霊神場で、寒山登山の神事を準備中の教会長や先達さんから一緒に護摩行や神事に参加しないかとお誘いを受けました。
昭和46年に他界した祖父が生前中に行っていたお勤めや修業の回顧となる参拝となりました。護摩の焚き上げや神事は明日書き記します。
お千代保稲荷 岐阜県海津市
本日の写真です。
子供の頃は父親の車に乗せられてお千代保さんへ参拝し、結婚直後は参道近くの駐車場が家内の伯母さんの嫁ぎ先のため無料で停めてもらい、その後は仲間と参道の居酒屋で飲み歩いて、最近では子供が独立して家内と二人で参拝するようになりましたが、私は神社の西方にある弘法大師堂と併せて参拝に訪れています。
お千代保稲荷は商売繁盛の神様ですが、最近の私は引退して年金生活者となっており、個人的な身体や困りごとは「お大師様」にお願いすることにしているため、「今年はお金に困窮しませんように」と全く地味なお願いをしてきましが…。
暦の中で「一粒万倍日」と「天赦日」に、私の運勢や吉方位占いが共通して縁起の良い日が近々あり、縁起の良い結果が出ることに期待することにします。
慈尊院山門
慈尊院は、弘仁七年(816)、弘法大師が、高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当たるこの地に、表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とされました。
土塀
多宝塔と鬼子母神
弥勒堂
香川県善通寺から我が子、空海を訪ねてこられた弘法大師空海の御母公、玉依御前(たまよりごぜん)が高野山上へ大師を尋ねようとされましたが、当時、大師自から七里(28km)四方を女人禁制としておられたので、山麓の当院へ迎えられました。
大師は、月に九度は必ず高野山上より二十数キロもの山道を下って母公を尋ねられたので、この地名を❝九度山❞と称されるようになりました。
詳しくは→ 女人高野について | 慈尊院 (jison-in.org)
ゴンの碑と弘法大師像
昭和60年代に、慈尊院近くに住みついていた紀州犬と柴犬の雑種である白い雄の野良犬がおりました。誰が教えたわけでもないのですが、不思議なことにその犬は高野山への参詣者の道案内をするようになったのです。当院から聞こえる鐘の音を好んでいたため、いつしかこの野良犬は「ゴン」と呼ばれるようになりました。
詳細は→ 高野山案内犬「ゴン」 | 慈尊院 (jison-in.org)
本堂
大師堂
多宝塔の奥が町石道入り口
狩場明神と空海の出会いの図
丹生官省符神社 正面参道119石段 一ノ鳥居
二の鳥居
拝殿
丹生官省符神社の草創は古く、弘仁七年(816)弘法大師(空海)によって創建されたお社であります。空海は、真言密教修法の道場の根本地を求めて東寺(京都)を出で立ち各地を行脚され途中大和国宇智郡に入られた時、一人の気高い猟師に出会い高野という山上の霊地のあることを教えられました。猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。
真言密教の聖地となった高野山ですが、今から1200年前にこの地で空海は漁師(高野明神)と出会い、山上に霊地(高野山)があることを教えられるとともに、連れていた二頭の犬を案内役として現在の高野山まで連れて行かれたと考えると感慨深いものがあります。
そして、善通寺から空海を訪ねて高野山へこられた母親の玉依御前(たまよりごぜん)を、大師自から七里(28km)四方を女人禁制としていたため、この地で迎えられるだけでなく、月に九度は必ず高野山から会いに来られたと伝承されています。
八年前の話となりますが、この慈尊院から7時間かけて高野山まで歩いたことがありましたが、当時でも悲鳴をあげた町石道を今は歩く気力も沸かないことを考えると、大師は月に九度も往復していたという体力と強い精神力にも驚かされます。
2015年06月20日
大鹿一八「本日の一言」 : 慈尊院から丹生都比売神社へ (livedoor.blog)
2014年10月20日
大鹿一八「本日の一言」 : 高野山 町石道を金剛峯寺まで (livedoor.blog)
さて、高野山まで町石道を歩く人々を案内していた「ゴン」についても、1200年前に空海を高野山まで案内した2頭の犬の再来としか思えず、教えもしないのに高野山まで案内していた犬の本能と、女人高野と言われていた慈尊院へ病気治癒を祈願する女性が手を合わせている現代社会と、空海が存在した時代と目に見えない糸で結ばれているようも思えてきます。
今から15年ほと前の先達となる以前の話となりますが、空海が修行したと伝わる四国各地の修験場で空海が発したと言われるご真言を唱えていたことがあります。九度山の慈尊院のゴンと、丹生官省符神社の2頭の犬から当時の想いをよみがえらせてくれたように思います。
昨日の凍結した高野山の道路
快活CLUB奈良橿原店 本日午前5時53分
受付カウンターで清算
店内のコミック
鍵付き個室のブース
スペース
車は真っ白です
今年になって最強の寒波と予報されている中で高野山に参拝して、道中の坂道と高野山の凍結したツルツルの道路を走り、長居をしたい心境を殺して急いで高野山から下り、道の駅九度山や御所南パーキングで買い物や食事を楽しみ、奈良県橿原市の橿原ぽかぽか温泉で入浴後に快活CLUB奈良橿原店へ到着しました。
快活CLUBは私のお気に入りで、旅先でもパソコンが置かれたブースで眠れることは、最高の環境となり、何よりもゲストハウスより定額で宿泊でき、鍵付き個室は完全に隔離された自分だけのスペースとなり、昨晩は家内と妹と隣同士で三部屋利用しました。
朝マック 午前6時14分
自宅では朝8時過ぎに起床し、午前中は役立たずの爺さんですが、上高地と四国遍路では早朝の起床も苦にならず、24時間営業しているマクドナルドは有り難い寄り道となりますが、wi-fi 環境を無くしたコンビニがある中でwi-fi を維持していることも魅力です。
橿原神宮へ
第一鳥居
神橋と第二鳥居
参拝所前の広い境内
本殿
予定では長谷寺と室生寺へ参拝する予定でしたが、奈良県の南部では閉鎖された道路もあったことから、本日は久しぶりに雪の橿原神宮と、今まで一度も訪れたことのなかった大神神社と、身体健全と病気平癒にご利益のある狭井(さい)神社に参拝しました。
JR桜井線 三輪駅
本日の写真です。
冬の高野山は雪を覚悟して訪れる必要がありますが、今回の大寒波の中で坂道だけでなく、真っ白に凍結した高野山へ参拝した経験は、最近忘れていた若かりし頃は苦にもしなかった雪道の運転を思い出し、これまで回避していた冬の四国遍路への希望ともなりました。
とりあえず、電車で訪れる予定だった1月と3月の松本行きも車で訪れ、体調が許せば四国遍路にも行く可能性を実感できる2日間となりました。
先月15日に閉山した上高地のインフォメーションセンターから本日のFacebook に久々の発信がありました。
閉山後も毎日五千尺ホテルのライブカメラを視聴していますが、本日までは閉山前と変わらぬ雪のない風景が続いてきました。
インフォメーションセンターの Facebook は下記のリンクをクリックしてご覧ください。
やはり現地からの発信は新鮮ですね。
さて、本日は早朝から町内の簗川(やながわ)八幡社で毎月1日に開催されている宮年番と神主さんによるお参りに参加してきました。
お宮の年番にならないと全く判らないことですが、月始めの1日は毎月町内から神主さんをお願いして月参りが行われています。
来年は私の住む地域が当番になっているため、見物を兼ねてお参りに参加した次第ですが、過去に体験済みなのに完全に次第を忘れて何も覚えていません。来年は覚悟が必要です。
本日は津島市民生児童委員の全員協議会が津島市文化会館で開催されました。
昨年の全員協議会は新型コロナの感染拡大によって開催されておらず、久々に全民生児童委員が集いましたが皮肉にも過去最高の感染状況になってしまいました。
信濃國一之宮 諏訪大社
上社本宮 長野県諏訪市中洲宮山 1
諏訪大社の社殿の周囲四隅には、御柱(おんばしら)と呼ぶ以下4本のモミの柱が建てられている。御柱は一から四の順に短く細くなり、上空から見た場合に時計回りに配置される。
21日の写真です。
諏訪大社の御柱については誰もが知る存在と思いますが、全くの不勉強で諏訪大社はひとつと勘違いしており、諏訪大社には上宮の本宮と前宮があり、下社には春宮と秋宮の四社が存在することを、今回の訪問で初めて知りました。
上社本宮には本殿が設けられていない。本宮の神体は現在守屋山と一般的に認識されているが明治時代の始まりまでは諏訪明神こと建御名方神の「御正体」とされた諏訪氏出身の(おおほうり)大祝が上社の神体ないし現人神として崇敬されていた。
土曜日に訪れた諏訪大社の写真について、明日から添付していきます。
箱根駅伝6位の中央大
久々の入賞です
久々の中大6位入賞です。私の長男は平成8年に開催されたインターハイの入賞(走り高跳び)により、中央大監督のスカウトを受けて翌年入学しましたが、当時の中大は大会ごとに有力校にあげられ、私の住む愛知県を走る大学駅伝には中大の旗を持って応援に駆けつけていました。
しばらく忘れられていた入賞ですが、5区を走る一年生の頑張りに親御さんになったような気持ちになって応援していました。
そんなわけで寝ているはずが気力回復して…
地元越津町の梁川八幡社
日光川
午後2時21分
津島市役所
名鉄津島駅 東口
天王通り 観音寺のギャラリー
牛玉山観音寺 真言宗智山派
本日もの写真です。
本日歩いた歩数は2,0780歩になりましたが、午前中から見ていた箱根駅伝で、久々に中央大学が6位に躍進したことで、外出する気力がよみがえり、地元出身である神野大地君の活躍によって青学を応援してきた近年とは違う、二十年前の父親の気持ちがよみがえってきました。
明日も中大応援のテレビ観戦となりました。
1月2日の一言
本日の体重 71,1キロ 徒歩数20,780歩
本日の体重 71,1キロ 徒歩数20,780歩
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