大鹿一八「本日の一言」

平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。

訃報

毎年恒例となった我家のアンズジャム作りへ

裏庭のアンズ 


 美しいの一言です


 落ちたアンズです

 収穫したアンズ

 散歩中



 週末の西国巡礼で自宅を空けていた間に、裏庭のアンズが熟して次々と落ちてくるようになっていました。

本日は落ちたアンズだけでなく、家内がハシゴに登って届く範囲のアンズを収穫しました。


  2020年6月13日の一言


 2018年6月1日の一言


  2013年6月9日の一言


 三日前の土曜日の朝、西国巡礼に出発する前にかつては我が家のアンズの木に登って アンズを収穫し、毎年アンズジャムを届けてきた恩師のお宅に立ち寄りました。


しばらくして、涙を流した 家内が戻ってきて、恩師の奥様が 昨年8月に亡くなり、恩師も今年5月に亡くなられていたことを告げました。


今にして思えば、お二人とは平成13年に一緒に 四国遍路へ旅立ち、西国 、坂東、秩父の百観音も一緒に巡拝したことから、家内は恩師の奥様とは親子か姉のように接してきただけに、家内は親を亡くしたかのようなショックを受けていました。


我が家のアンズを通じて、多くの交流が続いてきましたが、毎年同じように当たり前のように熟するアンズとは違って、多くの知人が鬼籍に入って行きました。


そんな想いを懐古しながら本日もアンズジャムが作られていました。


喪中はがきが届けられて


私は20年以上前から年賀状を出していないため、届けられる年賀状も限られていますが、そんな中に高校の大先輩でありながら無礼な後輩のために毎年年賀状をいただいていた貴重な先輩の奥様から喪中のハガキが届きました。

はがきに記された年齢を見れば驚くことではないかもしれませんが、昨年7月に個展を主宰されていたことを考えると想像できない便りでもありました。

21年7月15日

久々の個展 よったりの5日間展へ 愛知県一宮市 | 大鹿一八 『今日の一言』 (ameblo.jp)


今にして思うと、車椅子で会場に居られたことから、個展が最後の顔合わせになることを周りは予感されていたのかもしれません。


かつての喪中はがきは両親や年長者の案内でしたが、最近は同世代の知らせも届く為そのたびに心が滅入るようになりました。


 昔ながらの田んぼ道

かつては当たり前の田んぼ道が最近では珍しくなりました。

 疲れた時の居場所


 さて、昨日から体調が不調に陥っており、身体を休めても一向に回復せず、風邪とは思うものの何が原因か判らず、コロナ禍であることと膠原病を罹患していることから行くべき病院の選択すらできません。


そんなわけで身体を奮い立たせて外出したものの、体調が悪いと気休めにもならず、明日の起床時に回復していることを祈るしかありません。


鬼籍に入ったブロ友のコメントを探して

一年前 1月20日の写真


 生まれた年は1年違うものの、私と同じ津島市で生まれ育ち、私の三男が高校時代に自転車競技を通じてお世話になっており、平成20年(2008年)夏に鈴鹿サーキットで開催されたロードレースで顔をあわせて以来のお付き合いでしたが、我家の前をロードバイクで大手予備校まで通勤されており、ブログが同じヤフーだったことからブロ友として交信してきました。

 その知人が鬼籍に入って一年が経過し、家族の発信されたフェースブックを見て、知人が最後となる闘病生活送っている一年前の年末となる私の誕生日にお祝いのメッセージを寄せてくれていたことを再確認しました。

 知人の発信していたフェースブックを残された家族が定期的に更新されていることに、私は大きな力を感じて感謝していますが…

 厳しい闘病生活のなかで、「これからも大鹿さんらしい活動応援していますよ」とか、「もしもの時は病院までの送迎」を依頼されていたことが、私の一年前のブログに記されており、当時はそのコメントの交信が簡単に確認出ましたが、本日になって知人の残したコメントはフェースブック上だったことから探しても見つかりませんでした。


知人の残したブログ

晩年の書き込み

 歳を重ねると悲しい思い出がどんどん増えていきますが、同世代の知人との別離が当たり前のように起こっており、過去のブログを読み直していると、「あの時は叔父も元気だった」とか、相棒リマも生きていたことを実感させられますが、1年とか2年の過ぎ去った期間があいまいになっていきます。

2021-01-19

 知人のブログとフェースブックが残されていることは、生き残っている私には大きな生きる原動力になっていますが、多くのブログ(ブロ友)は遺族によって削除されたり、私の場合はヤフーブログのサービス停止によって消え去ってしまいました。

 

 我が身となって考えると、私のホームページについては有線テレビ局のネット配信であり、私の名前をもじって使っている電話「24-0018」津島は18や、愛車のナンバー18についても、私が亡くなれば家族に負担しか残さないため消えていく運命となります。


 一年の中でも厳しい寒波に見舞われる時期だけに、周りの訃報や苦境が伝わるとつい同じような心境にさせられてしまいますが、知人が鉄人のように逞しく思えたロード姿を思い出して乗り切りたいと思います。

                                1月20日の一言

恩を返さないままの別れに 海部元首相の訃報を聞き

私がいただいた書

現在は三男の接骨院に掲げてあります。


平成元年(1989年)9月発行のふるさとアサヒ第10号

                            私が編集発行していたミニコミ紙です。

昭和51年文部大臣就任祝賀パーティの1枚

                           津島青年会議所のメンバーと

平成2年1月のふるさとアサヒ第13号

年頭の挨拶分


 現職の総理大臣のあいさつ文を貰いにいきましたが、地元の有力者に依頼すると「総理大臣の挨拶文なんかもらえない」との返答で、「あんたで貰えるものなら貰ってきたら」と「若造のお前扱い」の冷たい反応しかなく、恐れを知らない私は直接訪れ、当時秘書であった田中志典氏(元犬山市長、元愛知県議)の計らいで年頭のあいさつ文と写真をいただきました。

懐かしい顔です

思い入れのある長文の挨拶文を戴きました。


議員時代 箱根のホテルで夕食に招いていただきました。


 私は平成11年に仕事を辞めて市議会議員に転出しましたが、立候補した初めての選挙中に我家の事務所前で海部さんに応援演説をしてもらいました。

 地元の人たちには私と同時期に県会議員に当選した井桁さんの縁で海部さんの応援をいただいたと思われているものの、実際には私の立候補を心配する稲沢市の先輩たちが海部さんの地元事務所(稲沢市)まで連れていっていただき、海部事務所の指導を仰ぐようになりました。

 「靴を3足履きつぶす覚悟で地元を歩け」と、海部さんの弟で秘書の尚樹氏に激を飛ばされて選挙運動をスタートさせましたが、それをさかのぼること10年前に地元で発行していた「ふるさとアサヒ」の挨拶文を、当時一宮市にあった海部さんの事務所を訪れて依頼しており、この挨拶文をミニコミ紙へ掲載したことで海部系と思われ、ミニコミ紙の複数の配布場所から置くことを断られました。

 さて、議員になってからも色々と海部さんのお世話になりましたが、しばらくして行われた市長選挙で海部陣営の推した候補者を私が応援しなかったため、津島市の海部陣営の政治関係者から締め出され、海部事務所を訪れることは無くなりましたが、元々が津島市の海部陣営の関係者とは無縁だっただけに無念な思い出となりました。

 海部さんの訃報を現実のものとして、受けた恩は多いものの、何一つとして恩返しができないままに現在に至った後悔は大きく、私にとっての海部さんは国会議員でありながら、政治上のつながりではなく、私のためなら何でもやると言われたランカ堂写真店の高橋さんとの写真つながりの延長で、高橋さんは海部さんのご尊父とも親交のある津島市で一番の海部ファンでもありました。

 私と海部さんをつないでくれたのは、決して政治的な打算や計算ではなく、その間をつないでくれた私の恩人や先輩が存在していたことから、引退された直後にでも当方から訪れて何かしら微力でも恩返しなり御礼ができておれば良かったと思いますが…

 知人は勿論ですが、恩人や先輩の訃報が身体に堪えるようになり、元気に散歩に連れられていく愛犬を見ても相棒の姿を探していることがあり、何時でも会えるとの感覚を改め今を大切にして生活していきたいと思います。
                               1月16日の一言 
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