2013年11月
名鉄勝幡駅
午後3時20分の写真です。
平成16年2月から令和1年7月末までの「本日の一言」です。ヤフーブログ閉鎖により、ライブドアへ過去の記録として引っ越しました。
2013年11月
名鉄勝幡駅
午後3時20分の写真です。
高知市では23日、明け方に雨が雪へと変わり、高知地方気象台によると、午前8時には観測史上最高となる積雪14センチを観測した。
高知城の天守も雪で覆われ、路面電車は一部で運転を見合わせた。市中心部では、車輪が空転する車を数人で押したり、転倒したミニバイクを通行人が助け起こしたりする様子がみられた。雪は夕方まで降り続く見込みという。 朝日デジタル新聞引用
奈良公園の鹿
奈良県警によると、京奈和自動車道の県内区間では午前6時~8時半、積雪や凍結が原因の交通事故が少なくとも5件相次いだ。このうち午前6時20分ごろに発生したトラック2台が絡む事故で、それぞれの車両の運転手2人が軽傷を負ったという。23日午後5時現在も御所南IC―橋本東IC間の上下線で通行止めが続いている。奈良国道事務所によると、通行止め解除の見通しは立っていないという。
【速報中】ヤマトと佐川、クリスマスを前に配達に遅れ 大雪の影響:朝日新聞デジタル (asahi.com)
先週日曜日(18日)の高野山は降雪に見舞われ、真っ白になるだけでなく道路が完全に凍結しており、あわてて下山して奈良県橿原市へ移動し、翌日は雪をさけて橿原神宮と大神神社へ参拝しましたが、本日の報道では奈良県も雪によって交通事故が相次ぎ、道路の通行止めが続いており、しばらくは外出を控えたよさそうですね。
第九番法輪寺納経所前の猫
第十六番観音寺の仏足石
第十三番大日寺の香炉
第十二番大日寺
第十二番焼山寺
ニホンヒキガエル
杖杉庵の弘法大師と衛門三郎
第十一番藤井寺の八十八ヶ所
本日届いた四国フォト廣瀬さんからの手紙
昨日のブログで3連休四国遍路の最終記事にしようと思っていましたが、本日の郵便ポストに善通寺の四国フォト廣瀬さんの手紙が届いており、帰宅後のブログに届いていた知人のコメントを確認し、お遍路仲間に近況報告する一日となりました。
ブログに届いた知人からのコメント
ご無沙汰しています。 今日は夫婦で66-68番まで歩いて参拝していました。ニアミスでした。また、いつかお会いできることを願っています。
高野山金剛峰寺で二度の法話を聞いた「帰ってきた坊さん」のコメントです。二度のサラリーマン生活から僧侶になられた方で、事前に連絡が取れていたらお会いできたと思うと残念なニアミスでした。
いまは、歩きが不自由になりみちのく巡礼の方洞に専念して居、明日東日本大震災への祈りと伝承の場創りに専心しています。
かつては、お孫さんと2人の遍路が新聞記事にもなったお遍路さんの先輩です。現在は東北の「みちのく巡礼」を宮城・岩手・福島3県で展開中です。
ブログ記事一覧|未来への祈り『みちのく巡礼』~東日本大震災東日本大震災犠牲者鎮魂と伝承の道 (ameblo.jp)
今回の遍路で新たな出会いを実現したのはフェースブックの恩恵ですが、これまでフェースブックはブログの延長程度にしか思っておらず、チャットを利用して連絡ができることも知りませんでしたが、1日目に出会ったМさんに知恵を授かり今後は有効に活かしたいと思います。
3月21日のフェースブック
ひょっとしたら、21日朝横峰上がりませんでしたか?
私達は下りで 緑ナンバーの良く似た車と離合したのを覚えてます。
〇〇さん、間違いなく私の車です。
こんな出会いがあるので、悪いことはできませんね(笑) これからも宜しくお願いします。
こんな連絡がメールのようにできるため、有効に利用すれば旅の情報源や情報交換が可能となりますね。
ただし、ネット上に公開された情報だけでは相手の性格や素性も判らないため、安易な個人的な情報交換は禁物ですが、たくさんのお遍路さんと遭遇するものの、一緒に巡拝するうちに会釈から挨拶となり、雑談に花を咲かせる人も出てきます。
3日目の午前中に遭遇した金沢市のKさんについては、一緒の駐車場の車中泊で隣同士だったものの、お遍路さんとは思っておらず、その後にお寺の駐車場ですれ違い遍路中と判り、最初は無言の会釈だけでしたが、次のお寺で「おはようございます」と挨拶し、その後3時間ほど会うこともなく昼過ぎになって再度顔をあわせました。
このお寺を八十八か所の最後にして愛知県へ帰るため、この人とも二度と会うことはないのかなと思っていると、お互いがどちらともなく挨拶から雑談に発展し、健康面やお遍路、今後の旅立ちなど話に花が咲き、ご夫婦をスマホで撮影して納札を交換していました。
帰宅後に写真を送るため納札の名前から検索すると、多角的に事業を展開しておられ、貧乏旅のような私の相手をしていただいたことに恐縮した次第で、こんな旅先での出会いはうれしいかぎりとなります。
私は平成13年に四国遍路をスタートさせましたが、当時は60歳定年制度と60歳から年金が支給されていたため、退職金や年金で経済的に恵まれるだけでなく元気なお遍路さんが多かったものの、最近では定年の延長と年金支給の引き上げで出会うお遍路さんの姿は一変しています。
そんな中で、新しい出会いは難しく、旧知のお遍路さんや現地の知人と再会する機会も減っていくため、今回の3連休は久々に新しい出会いと再会に感謝するお遍路となりました。
3月25日の一言
「四国遍礼道指南増補大成」
しこく遍路考
江戸時代は、旅の時代です。「徳川の平和」「泰平(たいへい)の世」と呼ばれる時代に、街道が整備され、参勤交代を行う武士だけでなく、許可を得て多くの庶民が旅に出ました。藩が国であった時代、旅に出る時はパスポートである往来手形が必要でした。庄屋や檀那寺(だんなでら)が身元を保証し、全国の関所や村役人に向けて、関所の通行要請や死亡した場合の取り扱いなどを書きました。
旅の隆盛とともに、西国巡礼や伊勢参り、金毘羅参りなど様々な案内記が発行され、人々を誘いました。四国遍路初めての案内記は、貞享4年(1687)の真念『四国辺路道指南』です。重版を重ね、書名の漢字も僧侶の修行であった「辺地修行」につながる「辺路」から、弘法大師聖跡の巡礼を表す「徧礼(へんろ)」「遍路」に変わっていきます。大坂の荒野聖・真念は、出版動機を「弘法大師850年忌にあたり老若男女の初心者も四国遍路できるように」と記し、歩きやすい道を選んで紹介しました。自身も200基以上の道標を建て、遍路宿を整備して、四国遍路興隆に寄与しました。
その後元禄2年(1689)、高野山の学僧・寂本の『四国徧礼霊場記』、同3年の真念『四国徧礼功徳記』が刊行され、同4年には歌舞伎『四国辺路』が京都で上演されており、畿内で四国遍路ブームが興っていました。
四国遍路に来た人々の日記も残っています。現在確認されている江戸時代の遍路日記は51点で、多くは地名・距離・難所が記された単調なものですが、筆者が福岡県立図書館で発見した佐治家の「四国日記」は、最も記述内容が豊かな日記です。
津屋崎村(福岡県福津市)の豪商佐治家一行は、7人連れで弘化2年(1845)2月22日に出発。小倉や萩、岩国の城下町、宮島を見物しながら、船で三津浜に上陸します。太山寺を打ち初めに四国を北上、55日で一周します。四国に入ると初日から登場するのが接待です。
集計すると、最も多いのは、香物(漬物)21件と赤飯18件です。続いて、髪結い7件、銭5件、唐豆類5件、煮しめ4件、餅2件、わらじ2件があり、白飯・焼米・ひきわり飯・弁当・はったい粉・トウキビ・薬・茶・豆腐・吸い物が各1件記されています。旅に必要な、自分にできる接待を行っていることが分かります。
接待主の名前も記されており、他村や他国からも接待に来ていることが分かります。伊予で13件、讃岐で25件(うち備中9件、備前1件)、阿波で11件ある一方で、土佐は0件となっています。藩から接待禁止令が出ていたためです。
遍路日記は、その時代の巡礼や社会の姿を伝えてくれます。江戸時代から続く接待は、重要な四国の文化なのです。(愛媛大学「四国遍路・世界の巡礼研究センター」センター長・胡光)
朝日新聞の転載です。